荷物がいっぱい

 出かけるなら荷物は少ないほどいいに決まってる。外を歩いていて、荷物がじゃまだなあと思うことほど気分の盛り下がることはない。地面に置いてかばんが汚れるのもいやだし、ベンチに置いて忘れたり盗まれたりする心配をしなくちゃいけないのもいやだ。とにかく荷物というのは文字どおりお荷物なのであって、さいふとハンカチだけをズボンのポケットに入れて、ほかにはなにも持たずに家を出るのが、どこへ行くにも絶対に一番いいに決まっている。

 

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 小さいころ買ってもらった、レゴブロックの一人乗りのバギーがとてもお気に入りだった。ガラス窓のついていない、フレームだけの車体で、屋根にはサーフボードが載っていて、それがとんでもなくかっこよかった。私はサーフィンには興味がなかったが、乗りものに自分の荷物をのせて遠くに出かけるということにとても憧れた。私はこのバギーで家じゅうを旅行し、絨毯の草原地帯やベランダの荒野、ベッドの山岳地帯を走らせまくりながら、いつか大人になったら自分のバギーに荷物を満載して、アフリカかどこかを旅行できたらいいだろうなと想像した。

 

 キャンプ地にやっとこ着いて、荷物をおろして、テントを建ててシートを敷いて、ひとまず具合が良くなるとだいたいもうクタクタだ。そうしてじゃあ何をするのかといえば、家にいるのと同じことをする。イスに座って、飲みものを沸かして、途中のコンビニで買ってきたお菓子をたべて、気が向いたら持ってきた本を読んだり、電波が通じれば(だいたい通じない)持ってきた機械でインターネットを見て過ごす。こう書くとずいぶんバカバカしい。

 でも、この、不便な自然のなかで家にいるのと同じ生活をする、というのが、私の感ずるところ、とても快感だ。どうしてだろう。自然を征服したような気持ちになるんだろうか。あるいは、自然に囲まれた場所にホコリ一つ入らないピカピカの家を建てて、豊かで便利に生活するという、テレビでしか見たことのないような暮らしを、貧乏臭くもささやかに叶えられることに満足を感じているのかもしれない。このごろはシニア向けのアウトドア旅行というので、手ぶらで行って、空調も調度品も行き届いたリゾートホテルのようなコテージを借りて、気軽に自然を味わうというプランが流行っていると、ニュース記事で読んだことがある。そんなんでなにが自然を味わうだバカ野郎と、とことん都合のいい、いいとこ取りだけを求める人間の浅ましさに腹を立てたが、でも一方でそういう、自然の中なのに、都会のように便利にすごせるというのは、たぶんだれにとっても理想的な、天国みたいなところであって、本当をいえば私もまた、そういう暮らしがしたいという欲求を持っていることに気が付いて、恥ずかしい思いがした。年寄りになって、昔のような体力はないけどお金ならあるというとき、こういう旅行ができるのなら、たしかに願ったり叶ったりだ。便利さということの前には、森林破壊も環境汚染も知ったことではない、なんとかなるんだろうというのは、実際のところの本音だ。

 

 思い立ってオートバイを買って、それで旅行に出かけようと決めたとき、意識はしなかったけれども、やっぱりあのレゴのバギーが心のすみにあっただろうと思う。窓ガラスのついていない、一人乗りの乗りもの。荷台にテントと道具と着替えのカバンを積んで、それをロープでくくりつけるのは、小さいころに憧れて、いつかやりたいと思っていたことそのものだ。

 

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 Amazonで、またアウトドア用品を注文してしまった。万能の小型ナイフと、湯沸かし用の背の低いやかんと、コーヒー用の道具で、これがあればキャンプでも家と同じようにコーヒーを淹れることができるから、きっといいに違いない。

 違いないと思うけれど、どのみち年に一回か二回、使うかどうかというような程度のものを、お金もないのに、どうして私は買ってしまうのか。荷物を減らしたいと思っているのに、一方でこういうものを買い込んで、道具入れの荷袋はとっくにパンパンだ。コーヒーを淹れられるということは、コーヒー豆の缶と、フィルターと、ミルクも持っていかなくちゃいけなくなったということだ。ああ、せっかくなら、コーヒー用のかっこいいステンレスのカップも、一緒に買っておけばよかったかな……

 

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 本当のところ、自分の荷物を持っているというのは、かっこよくて、大人って感じで、いい気分がする。私は荷物を持つのが好きだ。でもやっぱり、出かけるときには荷物は少ないほうがいい。さいふとハンカチだけを持って外を歩けるのが、このごろは本当の大人だという気がする。

 いつか手ぶらでオートバイに乗って、アフリカに行きたいよ。

 

 

 

 

 

アイマスと身体性


『輝きの向こう側へ!』
http://www.idolmaster-anime.jp/


 一番ぐっときたのは、グリマスの矢吹可奈ちゃんがストレス太りしちゃって、実際に本当にふっくら体型の絵で描かれていたところ。ちょっと衝撃的と言っていいくらい印象深かった。ギャグシーンでなく、本当に言葉通りに太ってしまったアニメの女の子って生まれて初めて見たような気がする。映画を通じてグリマスの女の子たちはみんな魅力的だったけれど、このシーンで私は矢吹可奈ちゃんがとても好きになった。


 私は、心の成長というのはあまり信じていない。信じていないというとなんだかずいぶん冷たい言いかたという感じがするけれど、つまり、映画の登場人物というのはだいたい、その物語の始めと終わりを通じて、問題を克服し、精神的に成長し、前とか未来とかいう目に見えないところへ向かって進んでいくもので、当然この映画もそうだったと思うんだけど、私は昔からそういうのを感じ取るのが苦手で、つまり結局、春香はどう変わったのか、それとも変わらないからうまくいったのか、よくわからなかった。心というのは目に見えず、音にも聞こえない。人が「心というものがある」と思い込んでいるからあるということになっているだけで、本当はどこにも存在しないのかもしれない、とてもあやふやなものだ。それを、映像と音楽のかたまりである映画というものでテーマとして取り扱うというのは、なんだか無謀でもあり、それをやりきれる作家たちの才能というのはすごいものだと思う。
心は身体と同じように成長するものなんだろうか。私はどちらかというと「三つ子の魂百まで」という諺のほうを信じている。春香は変わってない。だれも変わってない。変わったように見えたとすれば、それはその子の、今まで知らなかった心の一面を新たに見せてくれたということなのではないか。あるいは単に気分が変わっただけかも。ともかく、心というものが、まるで背が伸びるみたいに成長すると言い表せるものであるということを私はあまり信じていないので、そういうふうに解釈した。


 そんなふうだから、心の成長、心情の変化というようなものよりも、私はもっとわかりやすい、見た目の変化のほうにより関心が向かう。アイマス2で、髪の毛が伸びた真が好きだったし、背が伸びた亜美真美が好きだったし、プロデューサーになってスーツに着替えた律っちゃんが好きだった。春香が尻だけ2cm肥えたと話題になったけど、それはゲーム画面の見た目にはわからないのであまりピンとこなかった。心の成長、心の変化というものも、目には見えないから、本当にそうなのか分かるすべはない。でも身体的な変化は、そのまま、その子の時間の経過をひと目であらわしてくれる。架空のキャラクターには、本当は時間は流れていないことを私たちは知っている。だからそういう、「この子はあの時からいくぶん時間が流れている」と感じ取らせてくれる身体の、見た目の変化というのは、私にとってはとても重大で、アイマスでそういうものを感じられる瞬間があると私はいつも嬉しかった。
だから本当のところをいえば、私は貴音の大食いキャラがあまり好きではなかった。ただの非現実的なギャグにしかなっていない。実は出すほうもすごいんだとかいう描写でもあればまた別だけど、まあそうもいかない。貴音は食べるだけ食べて、太りもせず、お腹がふくれることさえない。まるでフィクションのアニメキャラじゃないか。私は貴音が好きだから、そういう描写があるたびに、彼女が作りものであることをいやでも思い出させられて悲しかった。


 だから、矢吹可奈ちゃんがお菓子の食べ過ぎで太ってしまう描写というのが、私はとても好きだった。身体が変化すると、その子は生きているんだなあと錯覚させてくれる。食べれば太るという、生きている人間にとっては当たり前のことが、アニメの女の子にも起こったことがとても嬉しかった。あの子たちは私たちと同じように、食べて、太って、ちゃんと身体に心を宿して生きているんだなという心地よい嘘を、あらためて私たちに信じさせてくれる素晴らしいシーンだった。アイマスは昔から、その嘘にずっと支えられ続けている。それを今回は春香でなく、グリマスから来た新しい子がやってくれたということが、思えばなにか象徴的であったようにも感じられる。


とてもよい映画だった。










 ただ、バネP、あいつはダメだ。何がダメって、服装をとうとう一度も変えなかったのがダメだ。映画では、美希や響の髪型が変わっているシーンが好きだった。律っちゃんのスチュワーデスみたいなリボンタイも、TVシリーズからまた時間がたって、心も服装も変わり続けていることを示してくれていて、とても似合っていて好きだった。合宿中も、劇中での季節の移り変わりによっても、みんな登場するたびに違う服を着ていて、私たちが生きて当たり前にしていることを、フィクションのキャラクターであるはずの女の子たちが同じようにしてくれているのが、私はとても嬉しかった。
それに比べてあいつはどうだ。アイドルではないからなのか、プレイヤーの分身だからなのか知らないが、ネクタイくらい変えたらどうなんだ。結局TVシリーズの第1話からこれまで着たきりスズメ。今日日のび太くんだって夏と冬じゃ違う服着てるっていうのに、おまえはフィクションのアニメキャラかっつーの!



記憶をたどって


Summer Daze

ksmgnさん / Nick Holder


これが私の思い出ではないことははっきりしているのに、どうしても何かを思い出させる。「思い出す」ということを促されるような気がして不思議だ。昔あった何か、小さい時に行った旅行で見たもの、どこかで聞いたような気がする音楽。この曲、たぶん初めて聞く曲なのに、絶対にどこかで聞いたことがあると感じるのも、記憶、思い出というものの印象に重なるようでとても惹き込まれる。
断片的な、という言い方をするけれども、実際のところ思い出というのに断片と呼べるほどはっきりした区切りはなく、頭のなかで、絵の具のグラデーションのようにすべてがぼやけてひとつに混ざり合っている。特に私は昔からぼんやりしているから、いつの記憶もあいまいで、先週のことも昔のこともあまりよく憶えておらず、昨日のことを10年前のように感じ、20年前のことを今日の昼のことのように思い出す。動画で印象的に取り上げられている、ステージの背景モニターの、なんて言うのかな、スクリーンセーバーみたいな光の演出を、画面いっぱいに出し、あるいはダンスに重ねて、視界がボヤーッとなる感じ、これが、あいまいで整然としていない思い出というものをとてもうまく表現していて美しい。
ずっと観ていると、気付かぬうちにまるで私の思い出の中にこの子たちの存在が入り込んで混ざり合うかのようで、そのうち私は春香と海へ行ったのは何年前だったかな、などと真剣に思い出そうとするようになるに違いない。