『アキツ丸カズヰスチカ』

  むかし、観に行こうかなと思っていたアニメ映画のサブタイトルが『星を継ぐもの』といって、それがあるSF小説のタイトルだと知ったので、映画を見る前にそれを読んでおこうと思って、文庫を買って、のろのろ読んでいるあいだに映画の公開日は終わってしまった。

 そういうふうにタイトルに使われているからには、なにかの内容、イメージ、ドラマの展開や、作品を通してのテーマなどを、引用している部分がありますということを、当然示しているだろうわけだから、せっかくなら、作品を鑑賞する前にあらかじめその引用元を知っておくほうがより楽しめるだろうし、なるべくそうするのがよいだろうと思うが、実際は面倒くさかったりして、なかなかうまくいかない。

 ただ、そのようなところから、あたらしい作品やなにか、いままで知らなかったし、知る機会もなかったようなことを知れるのはたのしいことと思うし、その作品の底本となったらしきものについて知識を得ると、なんだか一端の物知り文化人であるかのような、気取った意識が芽生えてくるようで、バカみたいだが、本当のところ気分がいい。

 

アキツ丸カズヰスチカ


[R-18]「C86新刊サンプル」/「ヲさかな 3日目東F37b」のイラスト [pixiv]

※成人向け

 カズヰスチカってなんだろうと思って検索してみたら、医学用語で、森鴎外の短編のタイトルで、それも青空文庫で公開されていた。森鴎外のことといえば、舞姫という有名な小説の作者で、軍医だったということを知っているだけで、実際に森鴎外の作品を読むのは初めてだったけれど、余情があり、おもしろかった。とくにやはり前半のところには、思わされることが多くあって、読んでよかった。

 ただ、この短編が本作にどのように影響しているのかは、よくわからない。いや、わかるような気もするけれど、言葉には言い表しづらい。タイトルの意味だけを引用しているといわれればそうかもしれないと思うし、もっと奥深いものが織り込まれているといわれれば、確かにそうだとも思う。

 ただどちらにしても、二次創作の娯楽作品のことだから、そもそもそんなに難しく考えるようなことではないだろう。少し暗いけど、そこが魅力的で、とてもおもしろかった。この作品世界の話をもっと読みたいと思った。

 

 作者のヲさかなさんは宮崎監督の風立ちぬが好きかもしれないと思った。あきつ丸の買いものの場面で、というだけでなくて、提督とあきつ丸の関係などは、そういえば二郎と菜穂子さんを思わせるところがあるとあとから気づいた。勘違いかな。私は風立ちぬがとても好きなので、そうだといいなと思う。

 風立ちぬといえば、避暑地のホテルでカストルプ氏が、ここは魔の山だ、下界のことはみんな忘れる、といったようなことを話す場面が印象に残っていて、映画を観終わったあとにトーマス・マンの『魔の山』の上巻を買ったんだけれど、難しくていまだに読み終えていない。でもいつか読み終えることができたら、風立ちぬについてきっと今より理解を深められるだろうと思っているけれど、それはいったい何年後のことになるだろうか。

 

 特に好きなのは、タバコをやりとりする場面と、りんごを食べるところ、あと「陸では遅れをとりません」のコマがとてもかっこよかった。それから、けっこういいかげんに言わせているように思えるむかしふうの言葉づかいが、かえって味のある、たんに昭和の日本ではない、異世界の雰囲気を出しているように感じられて妙によかった。傘の場面も。全部よかった。あきつ丸がとても好きになりました。

 艦これ再開してあきつ丸建造します。(イベント無視)

 

 

お尻に挿れたモノを舐めさせるところが一番エロかった。

 

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

 

 

 

荷物がいっぱい

 出かけるなら荷物は少ないほどいいに決まってる。外を歩いていて、荷物がじゃまだなあと思うことほど気分の盛り下がることはない。地面に置いてかばんが汚れるのもいやだし、ベンチに置いて忘れたり盗まれたりする心配をしなくちゃいけないのもいやだ。とにかく荷物というのは文字どおりお荷物なのであって、さいふとハンカチだけをズボンのポケットに入れて、ほかにはなにも持たずに家を出るのが、どこへ行くにも絶対に一番いいに決まっている。

 

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 小さいころ買ってもらった、レゴブロックの一人乗りのバギーがとてもお気に入りだった。ガラス窓のついていない、フレームだけの車体で、屋根にはサーフボードが載っていて、それがとんでもなくかっこよかった。私はサーフィンには興味がなかったが、乗りものに自分の荷物をのせて遠くに出かけるということにとても憧れた。私はこのバギーで家じゅうを旅行し、絨毯の草原地帯やベランダの荒野、ベッドの山岳地帯を走らせまくりながら、いつか大人になったら自分のバギーに荷物を満載して、アフリカかどこかを旅行できたらいいだろうなと想像した。

 

 キャンプ地にやっとこ着いて、荷物をおろして、テントを建ててシートを敷いて、ひとまず具合が良くなるとだいたいもうクタクタだ。そうしてじゃあ何をするのかといえば、家にいるのと同じことをする。イスに座って、飲みものを沸かして、途中のコンビニで買ってきたお菓子をたべて、気が向いたら持ってきた本を読んだり、電波が通じれば(だいたい通じない)持ってきた機械でインターネットを見て過ごす。こう書くとずいぶんバカバカしい。

 でも、この、不便な自然のなかで家にいるのと同じ生活をする、というのが、私の感ずるところ、とても快感だ。どうしてだろう。自然を征服したような気持ちになるんだろうか。あるいは、自然に囲まれた場所にホコリ一つ入らないピカピカの家を建てて、豊かで便利に生活するという、テレビでしか見たことのないような暮らしを、貧乏臭くもささやかに叶えられることに満足を感じているのかもしれない。このごろはシニア向けのアウトドア旅行というので、手ぶらで行って、空調も調度品も行き届いたリゾートホテルのようなコテージを借りて、気軽に自然を味わうというプランが流行っていると、ニュース記事で読んだことがある。そんなんでなにが自然を味わうだバカ野郎と、とことん都合のいい、いいとこ取りだけを求める人間の浅ましさに腹を立てたが、でも一方でそういう、自然の中なのに、都会のように便利にすごせるというのは、たぶんだれにとっても理想的な、天国みたいなところであって、本当をいえば私もまた、そういう暮らしがしたいという欲求を持っていることに気が付いて、恥ずかしい思いがした。年寄りになって、昔のような体力はないけどお金ならあるというとき、こういう旅行ができるのなら、たしかに願ったり叶ったりだ。便利さということの前には、森林破壊も環境汚染も知ったことではない、なんとかなるんだろうというのは、実際のところの本音だ。

 

 思い立ってオートバイを買って、それで旅行に出かけようと決めたとき、意識はしなかったけれども、やっぱりあのレゴのバギーが心のすみにあっただろうと思う。窓ガラスのついていない、一人乗りの乗りもの。荷台にテントと道具と着替えのカバンを積んで、それをロープでくくりつけるのは、小さいころに憧れて、いつかやりたいと思っていたことそのものだ。

 

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 Amazonで、またアウトドア用品を注文してしまった。万能の小型ナイフと、湯沸かし用の背の低いやかんと、コーヒー用の道具で、これがあればキャンプでも家と同じようにコーヒーを淹れることができるから、きっといいに違いない。

 違いないと思うけれど、どのみち年に一回か二回、使うかどうかというような程度のものを、お金もないのに、どうして私は買ってしまうのか。荷物を減らしたいと思っているのに、一方でこういうものを買い込んで、道具入れの荷袋はとっくにパンパンだ。コーヒーを淹れられるということは、コーヒー豆の缶と、フィルターと、ミルクも持っていかなくちゃいけなくなったということだ。ああ、せっかくなら、コーヒー用のかっこいいステンレスのカップも、一緒に買っておけばよかったかな……

 

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 本当のところ、自分の荷物を持っているというのは、かっこよくて、大人って感じで、いい気分がする。私は荷物を持つのが好きだ。でもやっぱり、出かけるときには荷物は少ないほうがいい。さいふとハンカチだけを持って外を歩けるのが、このごろは本当の大人だという気がする。

 いつか手ぶらでオートバイに乗って、アフリカに行きたいよ。

 

 

 

 

 

アイマスと身体性


『輝きの向こう側へ!』
http://www.idolmaster-anime.jp/


 一番ぐっときたのは、グリマスの矢吹可奈ちゃんがストレス太りしちゃって、実際に本当にふっくら体型の絵で描かれていたところ。ちょっと衝撃的と言っていいくらい印象深かった。ギャグシーンでなく、本当に言葉通りに太ってしまったアニメの女の子って生まれて初めて見たような気がする。映画を通じてグリマスの女の子たちはみんな魅力的だったけれど、このシーンで私は矢吹可奈ちゃんがとても好きになった。


 私は、心の成長というのはあまり信じていない。信じていないというとなんだかずいぶん冷たい言いかたという感じがするけれど、つまり、映画の登場人物というのはだいたい、その物語の始めと終わりを通じて、問題を克服し、精神的に成長し、前とか未来とかいう目に見えないところへ向かって進んでいくもので、当然この映画もそうだったと思うんだけど、私は昔からそういうのを感じ取るのが苦手で、つまり結局、春香はどう変わったのか、それとも変わらないからうまくいったのか、よくわからなかった。心というのは目に見えず、音にも聞こえない。人が「心というものがある」と思い込んでいるからあるということになっているだけで、本当はどこにも存在しないのかもしれない、とてもあやふやなものだ。それを、映像と音楽のかたまりである映画というものでテーマとして取り扱うというのは、なんだか無謀でもあり、それをやりきれる作家たちの才能というのはすごいものだと思う。
心は身体と同じように成長するものなんだろうか。私はどちらかというと「三つ子の魂百まで」という諺のほうを信じている。春香は変わってない。だれも変わってない。変わったように見えたとすれば、それはその子の、今まで知らなかった心の一面を新たに見せてくれたということなのではないか。あるいは単に気分が変わっただけかも。ともかく、心というものが、まるで背が伸びるみたいに成長すると言い表せるものであるということを私はあまり信じていないので、そういうふうに解釈した。


 そんなふうだから、心の成長、心情の変化というようなものよりも、私はもっとわかりやすい、見た目の変化のほうにより関心が向かう。アイマス2で、髪の毛が伸びた真が好きだったし、背が伸びた亜美真美が好きだったし、プロデューサーになってスーツに着替えた律っちゃんが好きだった。春香が尻だけ2cm肥えたと話題になったけど、それはゲーム画面の見た目にはわからないのであまりピンとこなかった。心の成長、心の変化というものも、目には見えないから、本当にそうなのか分かるすべはない。でも身体的な変化は、そのまま、その子の時間の経過をひと目であらわしてくれる。架空のキャラクターには、本当は時間は流れていないことを私たちは知っている。だからそういう、「この子はあの時からいくぶん時間が流れている」と感じ取らせてくれる身体の、見た目の変化というのは、私にとってはとても重大で、アイマスでそういうものを感じられる瞬間があると私はいつも嬉しかった。
だから本当のところをいえば、私は貴音の大食いキャラがあまり好きではなかった。ただの非現実的なギャグにしかなっていない。実は出すほうもすごいんだとかいう描写でもあればまた別だけど、まあそうもいかない。貴音は食べるだけ食べて、太りもせず、お腹がふくれることさえない。まるでフィクションのアニメキャラじゃないか。私は貴音が好きだから、そういう描写があるたびに、彼女が作りものであることをいやでも思い出させられて悲しかった。


 だから、矢吹可奈ちゃんがお菓子の食べ過ぎで太ってしまう描写というのが、私はとても好きだった。身体が変化すると、その子は生きているんだなあと錯覚させてくれる。食べれば太るという、生きている人間にとっては当たり前のことが、アニメの女の子にも起こったことがとても嬉しかった。あの子たちは私たちと同じように、食べて、太って、ちゃんと身体に心を宿して生きているんだなという心地よい嘘を、あらためて私たちに信じさせてくれる素晴らしいシーンだった。アイマスは昔から、その嘘にずっと支えられ続けている。それを今回は春香でなく、グリマスから来た新しい子がやってくれたということが、思えばなにか象徴的であったようにも感じられる。


とてもよい映画だった。










 ただ、バネP、あいつはダメだ。何がダメって、服装をとうとう一度も変えなかったのがダメだ。映画では、美希や響の髪型が変わっているシーンが好きだった。律っちゃんのスチュワーデスみたいなリボンタイも、TVシリーズからまた時間がたって、心も服装も変わり続けていることを示してくれていて、とても似合っていて好きだった。合宿中も、劇中での季節の移り変わりによっても、みんな登場するたびに違う服を着ていて、私たちが生きて当たり前にしていることを、フィクションのキャラクターであるはずの女の子たちが同じようにしてくれているのが、私はとても嬉しかった。
それに比べてあいつはどうだ。アイドルではないからなのか、プレイヤーの分身だからなのか知らないが、ネクタイくらい変えたらどうなんだ。結局TVシリーズの第1話からこれまで着たきりスズメ。今日日のび太くんだって夏と冬じゃ違う服着てるっていうのに、おまえはフィクションのアニメキャラかっつーの!