彼女は狂っていた

 蘭子ちゃんは自分の頭のなかで築いた独自の世界を通してでしかまともに人と話せない狂人で、そういう子の世界を理解しようとして、個性として認めて寄り添ってあげるということをプロデューサーは自然にやっていて大人らしく、印象的だ。

 大人らしくというが、実際には大人の男でもこういうことができる人はどれほどいるだろうか。私には自信がない。「ちょっとここ大事だから普通に話してほしいんだけど」とかなんの悪気もなく言ってしまいそうな自信がある。蘭子ちゃんがその一言でどれほど傷つくかさえ頭がまわらないだろう。自分の理解の及ばないものを、理解できないままに受け入れて尊重するというのは、とても難しく、大事なことだ。蘭子ちゃんのような子には特にそれが必要だろう。

 蘭子ちゃんのような子は確かに芸能界のような、狂人が受け入れられる場所でなけれは生きていけないように思えるし、プロデューサーはさすが芸能プロデューサーだけあってそういうところを分かっているのか、蘭子ちゃんの言動に戸惑うことはあっても、驚いたり困惑したり、否定的な目を持つことは全くなかったのが、ああ、やっぱりここって『普通の女の子が~』とかいってるけど特殊な世界の話なんだなーと思った。

 

 蘭子ちゃんはナチュラルに狂人で、それが個性として活かされて良かったねという話だが、一方で前川みくや安倍菜々みたいに個性がほしくて狂人のふりをしている子もいる。狂人の集いに加わりたくて狂人のふりをしようという時点ですでにその人は狂人だとも言えるけど、たとえば仮に、ネコミミを外しても、本当の年齢を明かしても、ちゃんとアイドルとして自分らしく活躍できると確信できる状況になったりしたら、みくはネコミミを外すだろう。べつに無理してやってるということもないだろうけど、ネコミミは手段だからだ。みくはネコミミのために生きているわけではないはずだ。

 でもたぶん蘭子ちゃんにそれはできない。蘭子ちゃんと彼女自身の世界は、ネコミミのように引き剥がせるものではなく、もし蘭子ちゃんが次の仕事ではゴスロリとへんな言葉遣いをやめろと言われたらなんの未練もなくアイドルを辞めるだろう。蘭子ちゃんにとっては、芸能界は自分が自由でいられる場所だからいるのであり、他に行き場がないからいるのであり、アイドル活動そのものにはあまり関心がないのだろうという気がする。

 他人の感情を推し量るのが下手なバネPやゲームのPでは、蘭子ちゃんは扱いきれなかったに違いない。蘭子ちゃんは幸せものだといえるし、蘭子ちゃんとプロデューサーの優しく解り合ったあたたかな関係の描写は、世の中にきっと多くいるに違いない、自分の世界と世の中とをうまく通じ合わせられないことで生きづらく感じて苦しんでいる人びとにとっては特に夢のように美しい一話だったのではないかと想像した。

 

 しかし蘭子ちゃんみたいな人間が芸能人なんかにならなくても生きていけるのが本当の良い世の中だというようにも思うし、蘭子ちゃんは346のお城の中でしか生きられない(そういえば彼女は346プロの寮で暮らしている)と思うので蘭子ちゃんは本当に幸せものなのかどうか、私にはわからない。それは私が常人だからなのか、あるいは蘭子ちゃんとは別の世界に生きる、別の狂気に駆られた人間だからなのか。 

 そういう意味では、世の中に常人というのは存在しないのかもしれない。

 

 

 

『アキツ丸カズヰスチカ』

  むかし、観に行こうかなと思っていたアニメ映画のサブタイトルが『星を継ぐもの』といって、それがあるSF小説のタイトルだと知ったので、映画を見る前にそれを読んでおこうと思って、文庫を買って、のろのろ読んでいるあいだに映画の公開日は終わってしまった。

 そういうふうにタイトルに使われているからには、なにかの内容、イメージ、ドラマの展開や、作品を通してのテーマなどを、引用している部分がありますということを、当然示しているだろうわけだから、せっかくなら、作品を鑑賞する前にあらかじめその引用元を知っておくほうがより楽しめるだろうし、なるべくそうするのがよいだろうと思うが、実際は面倒くさかったりして、なかなかうまくいかない。

 ただ、そのようなところから、あたらしい作品やなにか、いままで知らなかったし、知る機会もなかったようなことを知れるのはたのしいことと思うし、その作品の底本となったらしきものについて知識を得ると、なんだか一端の物知り文化人であるかのような、気取った意識が芽生えてくるようで、バカみたいだが、本当のところ気分がいい。

 

アキツ丸カズヰスチカ


[R-18]「C86新刊サンプル」/「ヲさかな 3日目東F37b」のイラスト [pixiv]

※成人向け

 カズヰスチカってなんだろうと思って検索してみたら、医学用語で、森鴎外の短編のタイトルで、それも青空文庫で公開されていた。森鴎外のことといえば、舞姫という有名な小説の作者で、軍医だったということを知っているだけで、実際に森鴎外の作品を読むのは初めてだったけれど、余情があり、おもしろかった。とくにやはり前半のところには、思わされることが多くあって、読んでよかった。

 ただ、この短編が本作にどのように影響しているのかは、よくわからない。いや、わかるような気もするけれど、言葉には言い表しづらい。タイトルの意味だけを引用しているといわれればそうかもしれないと思うし、もっと奥深いものが織り込まれているといわれれば、確かにそうだとも思う。

 ただどちらにしても、二次創作の娯楽作品のことだから、そもそもそんなに難しく考えるようなことではないだろう。少し暗いけど、そこが魅力的で、とてもおもしろかった。この作品世界の話をもっと読みたいと思った。

 

 作者のヲさかなさんは宮崎監督の風立ちぬが好きかもしれないと思った。あきつ丸の買いものの場面で、というだけでなくて、提督とあきつ丸の関係などは、そういえば二郎と菜穂子さんを思わせるところがあるとあとから気づいた。勘違いかな。私は風立ちぬがとても好きなので、そうだといいなと思う。

 風立ちぬといえば、避暑地のホテルでカストルプ氏が、ここは魔の山だ、下界のことはみんな忘れる、といったようなことを話す場面が印象に残っていて、映画を観終わったあとにトーマス・マンの『魔の山』の上巻を買ったんだけれど、難しくていまだに読み終えていない。でもいつか読み終えることができたら、風立ちぬについてきっと今より理解を深められるだろうと思っているけれど、それはいったい何年後のことになるだろうか。

 

 特に好きなのは、タバコをやりとりする場面と、りんごを食べるところ、あと「陸では遅れをとりません」のコマがとてもかっこよかった。それから、けっこういいかげんに言わせているように思えるむかしふうの言葉づかいが、かえって味のある、たんに昭和の日本ではない、異世界の雰囲気を出しているように感じられて妙によかった。傘の場面も。全部よかった。あきつ丸がとても好きになりました。

 艦これ再開してあきつ丸建造します。(イベント無視)

 

 

お尻に挿れたモノを舐めさせるところが一番エロかった。

 

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

 

 

 

荷物がいっぱい

 出かけるなら荷物は少ないほどいいに決まってる。外を歩いていて、荷物がじゃまだなあと思うことほど気分の盛り下がることはない。地面に置いてかばんが汚れるのもいやだし、ベンチに置いて忘れたり盗まれたりする心配をしなくちゃいけないのもいやだ。とにかく荷物というのは文字どおりお荷物なのであって、さいふとハンカチだけをズボンのポケットに入れて、ほかにはなにも持たずに家を出るのが、どこへ行くにも絶対に一番いいに決まっている。

 

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 小さいころ買ってもらった、レゴブロックの一人乗りのバギーがとてもお気に入りだった。ガラス窓のついていない、フレームだけの車体で、屋根にはサーフボードが載っていて、それがとんでもなくかっこよかった。私はサーフィンには興味がなかったが、乗りものに自分の荷物をのせて遠くに出かけるということにとても憧れた。私はこのバギーで家じゅうを旅行し、絨毯の草原地帯やベランダの荒野、ベッドの山岳地帯を走らせまくりながら、いつか大人になったら自分のバギーに荷物を満載して、アフリカかどこかを旅行できたらいいだろうなと想像した。

 

 キャンプ地にやっとこ着いて、荷物をおろして、テントを建ててシートを敷いて、ひとまず具合が良くなるとだいたいもうクタクタだ。そうしてじゃあ何をするのかといえば、家にいるのと同じことをする。イスに座って、飲みものを沸かして、途中のコンビニで買ってきたお菓子をたべて、気が向いたら持ってきた本を読んだり、電波が通じれば(だいたい通じない)持ってきた機械でインターネットを見て過ごす。こう書くとずいぶんバカバカしい。

 でも、この、不便な自然のなかで家にいるのと同じ生活をする、というのが、私の感ずるところ、とても快感だ。どうしてだろう。自然を征服したような気持ちになるんだろうか。あるいは、自然に囲まれた場所にホコリ一つ入らないピカピカの家を建てて、豊かで便利に生活するという、テレビでしか見たことのないような暮らしを、貧乏臭くもささやかに叶えられることに満足を感じているのかもしれない。このごろはシニア向けのアウトドア旅行というので、手ぶらで行って、空調も調度品も行き届いたリゾートホテルのようなコテージを借りて、気軽に自然を味わうというプランが流行っていると、ニュース記事で読んだことがある。そんなんでなにが自然を味わうだバカ野郎と、とことん都合のいい、いいとこ取りだけを求める人間の浅ましさに腹を立てたが、でも一方でそういう、自然の中なのに、都会のように便利にすごせるというのは、たぶんだれにとっても理想的な、天国みたいなところであって、本当をいえば私もまた、そういう暮らしがしたいという欲求を持っていることに気が付いて、恥ずかしい思いがした。年寄りになって、昔のような体力はないけどお金ならあるというとき、こういう旅行ができるのなら、たしかに願ったり叶ったりだ。便利さということの前には、森林破壊も環境汚染も知ったことではない、なんとかなるんだろうというのは、実際のところの本音だ。

 

 思い立ってオートバイを買って、それで旅行に出かけようと決めたとき、意識はしなかったけれども、やっぱりあのレゴのバギーが心のすみにあっただろうと思う。窓ガラスのついていない、一人乗りの乗りもの。荷台にテントと道具と着替えのカバンを積んで、それをロープでくくりつけるのは、小さいころに憧れて、いつかやりたいと思っていたことそのものだ。

 

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 Amazonで、またアウトドア用品を注文してしまった。万能の小型ナイフと、湯沸かし用の背の低いやかんと、コーヒー用の道具で、これがあればキャンプでも家と同じようにコーヒーを淹れることができるから、きっといいに違いない。

 違いないと思うけれど、どのみち年に一回か二回、使うかどうかというような程度のものを、お金もないのに、どうして私は買ってしまうのか。荷物を減らしたいと思っているのに、一方でこういうものを買い込んで、道具入れの荷袋はとっくにパンパンだ。コーヒーを淹れられるということは、コーヒー豆の缶と、フィルターと、ミルクも持っていかなくちゃいけなくなったということだ。ああ、せっかくなら、コーヒー用のかっこいいステンレスのカップも、一緒に買っておけばよかったかな……

 

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 本当のところ、自分の荷物を持っているというのは、かっこよくて、大人って感じで、いい気分がする。私は荷物を持つのが好きだ。でもやっぱり、出かけるときには荷物は少ないほうがいい。さいふとハンカチだけを持って外を歩けるのが、このごろは本当の大人だという気がする。

 いつか手ぶらでオートバイに乗って、アフリカに行きたいよ。