ゴジラと名もなき私

シン・ゴジラ

http://www.shin-godzilla.jp/index.html

 

 

 あんなデカイしっぽが頭の上をかすめたりしたら実際どうだろう。私だったらもう恐ろしくて全身に鳥肌が立って腰が抜けてその場で動けなくなっちゃうと思う。

 あるいはもし私が家にいて、ゴジラの予想進路上に私の家が含まれているとニュースで知ったらどうしただろう。たぶん私は「生き物なんだから進路の予想なんて当たるとは限らんし」とか都合のいい理由を立てて避難命令も聞かず家から出ない気がする。何が起こっても自分の家より安全な場所というのが想像できないからだ。ゴジラのあまりに巨大な足が向かいのアパートを踏み潰すころになってやっと「この場所はダメだ」と確信するももはや半狂乱になって机の下に隠れてただ震える自分の姿が簡単に想像できる。

 

 映画やアニメ作品を観たり、ゲームをプレイするとき、私はいつもその世界の人間の一人として生きている自分の姿を想像している。私がブルー・ノートのジャズプレイヤーの一人だったら…とか、私もライアン救出部隊の一員だったら…とか、私が弱小アイドル事務所の新人プロデューサーだったら…とか。画面の中で繰り広げられる物語には、いつも想像の私の姿が混ざっている。私は画面の中で、時には主人公になり、時には脇役になり、物語上の役割をこなして、物語の一部になった。

 『シン・ゴジラ』には、私の居場所はなかった。政治や行政の仕事というのは私にとってはあまりに、戦争よりも想像のできない世界だ。映画を観ていても、台詞の意味はわかるのにみんなが何をやっているのか全然わからない。わからないのに物事が実際に進んでいく感じだけは伝わってくるし、実際そうしてゴジラを足止めすることができてしまったのは凄いというより不思議…という感じだ。なんでこの人たちネクタイとスーツ着て建物の中をあちこち歩きまわっていろんな人とゴチャゴチャ話し合ってただけでゴジラを倒せたんだっけ…?というようなアホみたいな感慨があった。まるでわたあめの製造機を眺めている時と同じ気持ちだ。なんだか仕組みが全然わからないのにいつのまにかどこからともなくわたあめがどんどん出てきていつのまにか出来上がっている。私はそれを見ているのがとても好きだった。この映画に感じる面白さは、私にはわたあめ製造機を眺める面白さと同じだった。

 でもさすがにわたあめを私自身に置き換えて想像することはできない。もしゴジラが現れたら、私はどこで何をしているだろう。ゴジラに対して何をするだろうと、私は映画を観ながら想像していた。

 きっと何もできない。私は映画の中で何者になることもできなかった。逃げ惑う市民の一人としての自分さえ想像できなかった。街の中を、知らない人たちと一緒になって同じ方向へ逃げる自分の姿というのがどうも思い浮かばない。車を置いて逃げるなんて嫌だなあとか、あんな駅の地下ホームでギュウギュウ詰めになるなんて絶対ごめんだな、なんて思う。あのホームへ避難した人たちは、たぶんゴジラのあのすさまじい熱光線で皆死んでしまっただろう。おびただしい名もなき死者たち。あの人たちの誰一人、名前や役職が明朝体の字幕で表記されることもなく死んでしまった。ドラマのない、あっけない人生の終わり。あんな死に方したくないな~私があそこにいなくてよかった~映画でよかった~と思った。

 映画ではない。ほんの5年前に、ほんの数県離れた東北でこれと同じようなことがあって、2万人もの人びとがほとんど似たような目に遭った。私はその2万人の人びとの名前を一人も知らない。私にとって、名もなき人びとの名もなき死だ。映画のなかの東京が破壊されるのと、テレビの向こうで東北が破壊されるのとを、実際のところ私は同じもののようにしか感じられていないような気がする。私にとっては、私の目に直接入ってくるもの、私の家の窓から見えるもの以外のものは全部、隣町だろうが外国だろうが映画だろうが等しく遠くの世界の出来事だ。今まで生きてきて、ゴジラ津波も戦争の破壊にも直接遭ったことがないからそんなことを言っていられるのかもしれない。

 ゴジラに踏み潰され、建物の下敷きになった、画面に映りさえせずに死んだ無数の人びとと、5年前に津波に流されていった人びとと、今生きている私になんの違いがあるだろうか。私の顔に明朝体の字幕が付くことはきっとない。名もなき私が、ゴジラを前にしたら一体どうしたらいいんだろう。映画は「自分にできることを精一杯やる」人びとの物語で、それを私たち観客へのエールと受け取ることもできたと思うけれど、私はどうもかえって自身の無力感に包まれるような思いがした。おれは…おれはもしかしなくても…自分の身も守れない、いざという時になんの役にも立たない人間じゃないか…?カップラーメンのゴミを片付ける清掃員のおじさんのほうが、私の今している仕事よりもずっと立派だ。ああ、想像するほど、哀れに逃げ惑った挙句だれも知らぬ間に死んでいる自分の姿しか浮かんでこない。なんというドラマなき死!そんなのが本当に私の人生なんだろうか。実際そうなんだろう。そのような死を迎えた人びとが、今日も、昨日も、5年前も、いつの過去にも、数限りなくいるのだ。自分の人生というものは、実際のところ自分自身以外の人にとってはほとんど無に等しく小さな存在なのだということを、ゴジラという巨大な存在を通して、私はあらためて思い出した。

遍在するアイマス

 AKBでもモーニング娘でもいいから、アイマスの楽曲をカバーして歌ってくれないだろうか。世間的に有名なグループならだれでもいい。「これはアイドルマスターっていうアニメの曲で…」なんて説明は一切無用だ。むしろ知られないほうがいい。AKBの新曲として何食わぬ顔で歌ってほしい。

 曲はなんでもいいけど、たとえばM@STERPIECEとか自分Restartなど、アイマス色が強かったり自己言及するようなのはあまりそぐわない。いいのはやっぱり、アイマスそのものへのメッセージ性の少ない、アイマス1からアイマス2へ、2からワンフォーオールへと引き継がれる際に脱落してしまうような、アニメ版でもまともに取り上げられないような、アイマスの中においても影の薄い曲だ。具体的にはILIKEハンバーガーだ。

 本当をいえば、HoneyHeartbeatやキミチャンネル、特にキミチャンネルはとても好きだけど、ハンバーガーが一番くだらない内容で明るい、楽しい歌だし、ふさわしいと思う。これをぜひ歌ってほしい。

 

 Mステに、名前は知ってるけど一人ひとりの顔の区別はつかないアイドルグループがあらわれて、ILIKEハンバーガーを歌い出す。やっぱりlittle match girlでもいいかもしれない。どちらでもいいけど、もちろんMステだから、アイマスのことなど一片も知らず興味もない大勢の人々がそれを聴く。なかなかいい曲だなと、きっと思うだろう。アイマスのことなど一生知られる必要はない。アイマスのことなど誰も知らぬまま、AKBのILIKEハンバーガーは握手券とは関係なくヒットし、その年の流行歌になり、紅白の中盤で歌われて、カラオケの定番曲になるだろう。実際それくらいいい曲だ。不幸にもこれらの曲はアイマスの劇中曲として生まれて、アイマスを知っている人の中のさらに一部の人にしか知られていないというだけのことなのだ。

 

 スーパーの店内BGM、携帯の着信音、テレビ番組のイントロから、気が付くとハンバーガーが流れ聞こえてくる。AKBのハンバーガーはいろんな人にカバーされ、いまや演歌を聴く世代の人でも聴いたことがあると答えられる、時代を代表する国民的ポップソングのひとつだ。そこにアイマスの影はない。かつてのアイマスPですら、ILIKEハンバーガーが元々アイマス曲であったことを忘れてゆく。それほどまでにハンバーガーはアイマスを離れて、世のなかに、世間一般に、広く遠く響きわたった。アイマスはやがて誰からも忘れられたが、ハンバーガーはいつまでも歌い継がれた。

 そしてアイマスは誰にも知られぬまま、人びとのあいだに永遠に遍在するだろう。そういう望みだ。

彼女は狂っていた

 蘭子ちゃんは自分の頭のなかで築いた独自の世界を通してでしかまともに人と話せない狂人で、そういう子の世界を理解しようとして、個性として認めて寄り添ってあげるということをプロデューサーは自然にやっていて大人らしく、印象的だ。

 大人らしくというが、実際には大人の男でもこういうことができる人はどれほどいるだろうか。私には自信がない。「ちょっとここ大事だから普通に話してほしいんだけど」とかなんの悪気もなく言ってしまいそうな自信がある。蘭子ちゃんがその一言でどれほど傷つくかさえ頭がまわらないだろう。自分の理解の及ばないものを、理解できないままに受け入れて尊重するというのは、とても難しく、大事なことだ。蘭子ちゃんのような子には特にそれが必要だろう。

 蘭子ちゃんのような子は確かに芸能界のような、狂人が受け入れられる場所でなけれは生きていけないように思えるし、プロデューサーはさすが芸能プロデューサーだけあってそういうところを分かっているのか、蘭子ちゃんの言動に戸惑うことはあっても、驚いたり困惑したり、否定的な目を持つことは全くなかったのが、ああ、やっぱりここって『普通の女の子が~』とかいってるけど特殊な世界の話なんだなーと思った。

 

 蘭子ちゃんはナチュラルに狂人で、それが個性として活かされて良かったねという話だが、一方で前川みくや安倍菜々みたいに個性がほしくて狂人のふりをしている子もいる。狂人の集いに加わりたくて狂人のふりをしようという時点ですでにその人は狂人だとも言えるけど、たとえば仮に、ネコミミを外しても、本当の年齢を明かしても、ちゃんとアイドルとして自分らしく活躍できると確信できる状況になったりしたら、みくはネコミミを外すだろう。べつに無理してやってるということもないだろうけど、ネコミミは手段だからだ。みくはネコミミのために生きているわけではないはずだ。

 でもたぶん蘭子ちゃんにそれはできない。蘭子ちゃんと彼女自身の世界は、ネコミミのように引き剥がせるものではなく、もし蘭子ちゃんが次の仕事ではゴスロリとへんな言葉遣いをやめろと言われたらなんの未練もなくアイドルを辞めるだろう。蘭子ちゃんにとっては、芸能界は自分が自由でいられる場所だからいるのであり、他に行き場がないからいるのであり、アイドル活動そのものにはあまり関心がないのだろうという気がする。

 他人の感情を推し量るのが下手なバネPやゲームのPでは、蘭子ちゃんは扱いきれなかったに違いない。蘭子ちゃんは幸せものだといえるし、蘭子ちゃんとプロデューサーの優しく解り合ったあたたかな関係の描写は、世の中にきっと多くいるに違いない、自分の世界と世の中とをうまく通じ合わせられないことで生きづらく感じて苦しんでいる人びとにとっては特に夢のように美しい一話だったのではないかと想像した。

 

 しかし蘭子ちゃんみたいな人間が芸能人なんかにならなくても生きていけるのが本当の良い世の中だというようにも思うし、蘭子ちゃんは346のお城の中でしか生きられない(そういえば彼女は346プロの寮で暮らしている)と思うので蘭子ちゃんは本当に幸せものなのかどうか、私にはわからない。それは私が常人だからなのか、あるいは蘭子ちゃんとは別の世界に生きる、別の狂気に駆られた人間だからなのか。 

 そういう意味では、世の中に常人というのは存在しないのかもしれない。