料理と食事

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 キングゲイナーっていうアニメに「この毛長牛の肉は冷凍5年ものだな?」って言って値切るシーンがあって、キングゲイナーというアニメについて私はほとんどそれしか覚えていないんだけど、そのシーンはとても好きで、スーパーで買い物した肉を冷凍庫にしまったり取り出したりすると必ずそのセリフが頭のなかに蘇る。

 「いいやゲインさん、この鶏肉はまだ冷凍3ヶ月だ。新鮮ものだよ…」

 

 自分で料理するほうだけど、好きでやっているというよりも外食や買い食いが苦手だから仕方なくそうしているような気がする。家族で行くのは別として、普段の生活で外で食事をするという習慣がこのいい歳になってもついに身につかなかった。学生時代に、学校のあと友達とどこかに入って、あるいは買って食べるということも、本当にほんの一度か二度くらいしかなかったと思う。

 同じように、カフェでゆっくり過ごすというのも経験がない。お気に入りの、落ち着いた雰囲気のお店でゆっくりコーヒーを味わうように、大人になればなれるんだろうと思っていたから、落ち着くどころかお店の扉を開けることもままならないままであることにショックを受ける。

 母が料理上手だったのが何もかもいけないのだ。おかげで私はたまにひとりで出かけてもどこで何を食べたらいいのかぜんぜんわからなくていつもなんとなくみじめな気持ちがする。

 

 みんな普段何を食べてるんだろう。コンビニでお弁当を買ったり、ラーメン屋に入ったりしているんだろうか。外食ができる人は、食事の選択肢がいろいろあって、町を歩くのも楽しいだろうなと思う。孤独のグルメはおもしろいけど、私にとって井ノ頭氏は完全にファンタジーなキャラクタだ。どうしてあんな風に、食事そのものを楽しむことができるんだろう、それも孤独に。ひとり豊かで、静かで…

 じゃあ家にいるのが一番だねということになるんだけど、できることなら家に引きこもって一生を送りたいかといえばそうでもなく、本当は休みの日にはもっと外出したいと思っている。車かバイクでどこかに出かけて、そのへんで美味しいものを食べて帰ってくるようなことを気軽にしてみたいと思う。でもどこへ行っても結局落ち着かないから、家にいるのが楽だというのも本当だ。休みの日に家にいるのなら、せめて趣味は料理だというくらいは言えなくてはいけないような気がして、このごろはなんだか家でも落ち着かないでいる。

 

 あるとき荒野にひとり放り出されることになったら、自分はどうなるんだろうということをよく考える。食事を他者に頼ることに対して拒否感があるのは、そういう想像と関係しているのかもしれないと思う。

 「お前、そんな手軽に腹を満たすことに慣れてしまっていて、本当にいいのか。この便利すぎる世の中がお前の死ぬまでつづくって、どうして信じられるんだい?いざという時、サバンナにコンビニはないんだぜ」

 このことを考えると、いつもダマスカスのことを思い出す。戦争になる前のダマスカス市の写真を見たことがあって、それはもしかしたらアレッポ市だったのかもしれないが、いずれにしろパリや東京と変わらないような近代的な美しい大都会で、この写真の人たちなんてこの街が数年でBF2のゲームマップみたいな廃墟になるなんて一片も想像していなかったに違いなく、そう思うとどうして今の私の安全な生活が来年も続くといえるだろうかと思わずにはいられず、だからなんだか、こんなに簡単に料理した食べものが手に入っていいのかなあ、巡り巡って、バチが当たるんじゃないのという気持ちが、どうしてもなくならない。

 

 だから自分で料理をしているのかもしれない。料理をしてこその人生なのかもしれないよ、博士。