話してほしい

 年長者が話し始める「そもそも…」すると聞き手の若者はすかさずそれをさえぎってしまう「また始まった」「その話、長くなりそうですか?」

 若者と年長者という関係に限らず、他人の長い話を聞きたがらない態度というのは広く共感され、定番のコメディとしてよく描写される。つまらなくて長い話を聞くのは時間の無駄だし、こちらから意見を求めているのでないかぎり他人の考えには興味がない。そういうことなんだろうか。

 

 私には話題がない。時事に暗いし、深く話せるほどの趣味もない。だいたい普段の生活のなかで人と会って話すことが少ないせいだろうと思う。話題の豊富なひとの多くは、いろんな人と会って、なにかをして、話している。コミュニケーションそのものが、次のコミュニケーションの土台になり、葉が枯れて土になるように、だんだんとそのひとの言葉とコミュニケーションを豊かにしていく。天気とアイマスの話しかできない自分がそういう事に気がついたのは、ずいぶん最近のことだった。

 誰かといるときに相手の人がなにも話さなくても、沈黙を気まずいとは思わないようにしようといつも心がけているけど、相手が話してくれると、やっぱり落ち着いた気持ちになる。ひとの話すことはなんでも面白い。たとえ勤め先の上司の、ビジネス書の受け売りのような仕事論でも、そこには必ずその人自身が少しずつ含まれている。話が長いのも、同じ話を繰り返すのも、それがそのひとの頭の中での言葉の整理のさせかたなのだとわかっているから平気だ。そのひとが、その人自身が含まれた言葉で話す限りにおいて、大抵の話題は興味深い。

 でも、はじめのようなことで、世間ではもしかして、とくに求められていないところで、事務的、仕事上の会話や天気の話ではなく、自らを含んだほんとうの『話』をするのは慎まれるべきことなのかもしれない。そういう話は親しい友人や家族の間柄ではじめて交わされるもので、ただの同僚や、上司や、名前を知っているだけのクラスメイトや、初めて会ったひとなどとは、そういう話はしないのがもしかすると暗黙の社会的マナーなのかもしれないと思う。

 

 私は天気とアイマスの話しかできないといったけど、本当はもう一つだけ、自分の話なら少しはできる。生い立ち、通った学校、家族のこと、仕事のこと、つまり誰でも話せる自分自身のことだ。名前も記憶もない人間はいない。それまでの人生がよくても、よくなくても、おもしろくなくても、言葉が下手でも、話すことは必ずある。誰かと会ったとき、社交辞令でも、時事でも、ものごとの表面をなぞるようなインスタントな世間話でもなく、ほんとうはそういう話をたくさん聞きたいといつも思っている。「はじめまして、こんにちは。誰これともうします。こういう仕事をしています。生まれは北海道でして、小さいころからよくソリ遊びを…」フレンドリーでいい出だしだ。すぐに仲良くなれる気がする。

 人と会う機会が先日あって、そのようなことを思った。

 

 ほかの人がどうかはわからない。少なくとも私は、その人の半生や、将来の計画や、共感する本の内容や、生きがいや、思想や、アイマスと自身の人生の関わりについての長い話をしてほしいと思う。返事すら下手なのできっと「へえー」しか言えないが、それでも構わなければ。