見えない

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 彗星を見ようと思って川辺に行き、長い梅雨空の隙間の色が水色から黄色、黒い紺色に変わるまで眺めていた。地上の光があまりにも眩しい。グラウンド、モール、ごみ処理場、橋、国道、ヘッドライト。数キロも先にいるはずの自動車のヘッドライトの光がまるで射抜くように目に直接飛び込んできて、私は思わず顔を覆う。夜目に慣れてきた瞳がふたたび瞳孔を閉じたので、空の星はひとつも見えなくなった。低い雲が街明かりを受けてグレーにぼやけている。グレーは空全体を覆いつつある。

 天気予報を信じるかぎり雲がわずかでも切れる日は今日しかなかった。あの星を見るにはもう6000年生きるしかないらしい。

 星を見ることは科学というより瞑想に近い行いのように感じられる。

 2061年にハレー彗星が来る。私がそのころまで生きていて、十分な視力があり、星を眺めるような余裕の心を持てる生活を維持できているかどうかといえば、かなり怪しい。近ごろでは自身の明るい未来を想像することはどんどん難しくなっている。41年後の美しい夜、性能のいい天体望遠鏡を持ってひとり、明かりの少ないどこかでそれを覗き込んで彗星を見るのが今の私の夢だ。そのためには今から備えるしかない。

 星は去り、私は川辺に取り残される。意識をかすかにほうきで梳かれて。

焚火

 深い悲しみ、目の前で失われてゆくものへまだ行かないでほしいと懇願する抑えきれない強い気持ちがあり、それにも関わらず崩れ落ち、秩序を失い、無情に、ある種の力強さをも帯びて無へと帰ってゆくさまを見て、打ちのめされる痛みの向こうに、その人の手の及ばなさ、長い時間をかけて作り上げた価値あるものが実はほとんど空疎なものであったことを否応なく思い知らせる大きな力に対して、美しい、としかいいようのない感慨があふれてくることがある。

  首里城や、パリの寺院が火事になったとき、やはり滅びの美という言葉が飛び交った。その建物になんの愛も思い入れもない人間に、そんなものを感じられるはずがないと私は思った。彼らも、私も、焚火の火をきれいだなと感じるのと同じ目で燃え落ちる尖塔の映像を花火大会のように鑑賞していたに過ぎない。それは特別な、心の深いところから湧き上がる感慨としての美しいと感じる気持ちとはまったく別のものであることを、言葉のうわつらを撫でて悦に入る人びとのうちのどれだけが自覚していたんだろう。

  滅びの美学と誰かが名付けた瞬間に、その概念はファッションになったのだろう。私がこれを着こなす資格を持たないことは幸福、あるいは幸運であることの証だと思うべきかもしれない。

 

2020/5/27

SA

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 「遅くなったね」
 午後11時を回っていた。プロデューサーは日付が変わる前に春香を家まで送りたかったが、ナビは午前の到着を予測していた。「眠っていていいよ」
 助手席に座る春香は、窓のほうに顔を向けて紺色をした夏夜の背景をオレンジ色の照明灯がノーツのように規則的に流れていくのを飽かず眺めていた。春香は車の窓から見えるそのふたつの色を愛していた。旅行の色だ、と春香は思った。
 年に何度かの家族旅行の帰り、父の運転するレガシィの助手席で春香はいつもオレンジ色の光を目で追っていた。眠っていていいよと父に言われても春香は眠ったことがなかった。自分が寝てしまったら、一人で運転するお父さんがかわいそうだと思っていた。後ろの席でぐうぐう寝ているお母さんは薄情だといつも思っていた。最後に家族で旅行したのっていつだったろう。地方での仕事の帰り、夜の高速道路をプロデューサーの運転で送ってもらうとき、春香はいつもそのことを思い出した。インストルメントパネルの光にぼんやり照らされて時計を気にしながら欠伸を抑えるプロデューサーの疲れた横顔を春香はそっと見た。パーキングを示すグリーンの標識が、視界の端に流れていく。
 「少し休憩しませんか?」ゆったりした静かな声色で春香は言った「私、のどが渇いちゃいました」

 夏の夜中のすばらしい空気が、クーラーで冷やされた身体と髪の毛をしっとりと温めていくのを感じるのが春香は好きだった。スゥと大きく息をして、あたたかな湿度といっしょに草木とガソリンの匂いを胸に取り込んでいく。夜のドライブの匂いがした。拡散された照明灯のオレンジがサーヴィスエリアの広い駐車場と白い建物を包み込み、周囲の青暗い闇夜から浮き上がらせていた。宇宙港のようだ、と春香は思った。水素燃料の補給を終えたらここから垂直離陸で飛び立って、天の川まで連れて行ってもらおう。途中で立ち寄る月のSAにはきっとうさぎを象ったお菓子が売られていて、私たちはそれをお土産に買い、車のなかで、プロデューサーは運転をしながら、私は窓の外を太陽がいくつも通り過ぎるのを眺めながら、一緒におしゃべりをして食べよう。やがて車窓は星々の白い光にあふれて昼間のように明るくなり……

 「のどが渇いたね」プロデューサーの声は春香の耳に遠く響いた。「少し休憩しようか」プロデューサーはそっと助手席の少女の横顔を見て薄く微笑む。少女はすやすやと眠っていた。いつだったか、自分はドライブ中に眠ったことがないんだと妙な自信をもって春香が話していたことをプロデューサーは思い出していた。残念だな、とプロデューサーは独り言のように呟いた。「夜のSAの空気はすばらしいんだが」 

 車は走行車線のままパーキングを通過していく。時刻は0時を回っていた。

 

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Distant Drive (w/ ConsciousThoughts) (Fresh Wax part 3) by Mr. Wax | Free Listening on SoundCloud

 

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