深い悲しみ、目の前で失われてゆくものへまだ行かないでほしいと懇願する抑えきれない強い気持ちがあり、それにも関わらず崩れ落ち、秩序を失い、無情に、ある種の力強さをも帯びて無へと帰ってゆくさまを見て、打ちのめされる痛みの向こうに、その人の手の及ばなさ、長い時間をかけて作り上げた価値あるものが実はほとんど空疎なものであったことを否応なく思い知らせる大きな力に対して、美しい、としかいいようのない感慨があふれてくることがある。
首里城や、パリの寺院が火事になったとき、やはり滅びの美という言葉が飛び交った。その建物になんの愛も思い入れもない人間に、そんなものを感じられるはずがないと私は思った。彼らも、私も、焚火の火をきれいだなと感じるのと同じ目で燃え落ちる尖塔の映像を花火大会のように鑑賞していたに過ぎない。それは特別な、心の深いところから湧き上がる感慨としての美しいと感じる気持ちとはまったく別のものであることを、言葉のうわつらを撫でて悦に入る人びとのうちのどれだけが自覚していたんだろう。
滅びの美学と誰かが名付けた瞬間に、その概念はファッションになったのだろう。私がこれを着こなす資格を持たないことは幸福、あるいは幸運であることの証だと思うべきかもしれない。
2020/5/27