スタマスを待ちながら

 動かないということが、シャニマスにハマれないただひとつの理由だと思う。

 どれだけドラマチックな言葉のやりとり、物語の構成を見せられても、それらを演じる登場人物たちがただ画面の中央から動かないことで、それらの言葉は質量を、擬似的な質量を、本物らしさというべきものを発することをせずにただ流れてゆくように感ぜられた。

 それはもちろん、その質量を感じ取るプレイヤーとしての私の感受性の弱さの問題と言えるかもしれない。そういう問題は今は置いておいて、私の感じるところにおいて、画面の動かない物語を物語と認識することは困難だった。悪い言いかたをすれば、喋ってばかりで何もしない、怠惰な光景に似たものを見せられているような錯覚を起こさせた。会話の内容が濃密であるほど、むしろそうだった。

 画面がある、ということがむしろ物語への没入の妨げになっているかもしれないと感じている。これがはじめから文字だけのものであれば、違ったのかもしれない。

 

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 そもそもアイドルマスターに夢中になったのは単に画面が動いているからであったことをシャニマスを通じて私は初めて思い知った。それまで美少女ゲーム、ノベルゲームをまともにプレイしたことは一度もなかったし、それらとアイマスとの違いはキャラクターが動くかどうかという以外になかったと思うけれど、その違いは私が自分で思っているよりも大きなものだった。

 存在とは動きである、とカルロ・ロヴェッリという物理学者の本に書いてあった。キャラクタが踊り回り、画面の左から右へ、奥から手前に動くことで生まれる実在感の錯覚にこそはじめから私は心酔していた。画面を通じて伝えられる種類の物語においては、動くことこそが物語の核であり、またそうあるべきであるというのが私の感じかたであった。

 

 シャニマスの物語の緻密さへの執念はむしろ、私をアイマスに対する特別なコンテンツとしての信仰、実在感への夢から覚まし、無数の優れたフィクションのひとつとして認識を変えさせたと思う。それを私は幸福なこととして受け入れている。