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ポケモンと虫捕り

日記

 ポケモンGOはプレイヤーの多い都会のほうがいろいろ遊ぶのに有利らしくて、「田舎者はカブトムシでも捕ってろ」ってTwitterでからかわれたりしていた。この煽り文句自体がおもしろくて印象に残っているんだけど、実際のところポケモンGOって虫捕りよりも遊びとして「上位」なのかな。本来、虫捕りのおもしろさをゲームにしたのがポケモンで、虫捕りの楽しさを知らないかわいそうな都会の子供たちのために作られたんだと思ってたんだけど、今やポケモンGOを楽しめないかわいそうな田舎の子供たちということになるのかな。都会のポケモンプレイヤーで、「玄関のドアにカブトムシがくっついてた」って聞いてもうらやましいと思う人っていないのかもしれない。

 私はといえば、虫捕りもポケモンも子供の頃からほとんどやらなかったのでそもそも何か言えるような立場じゃないんだけど、でもな~なんというかカブトムシよりスマホ画面のピカチュウのほうが価値があるとされる世の中だとしたらやっぱりちょっとやだな~と思いました。

 

休日

日記

 この上着、もう何年着ているかな。5年か10年にはなる。いや、10年はどうかな。5年はたしかだ。5年前にインドへ行ったときにこれを着ていったのを覚えている。あれからもう5年も経っているんだ。おれも少しは歳をとったようにみえるのかな。ともかく、5年から10年というところだ。気に入ってはいるが、少しもう世代が外れてきているかもしれない。いい歳をして、遊んでいる大学生のような格好に見えないか?おれはこれでも勤め人なんだ。もう少し落ち着いた格好というものについて考えるべき頃合いではないだろうか。

 私が新しく買った服を着ているのを見ると父は「おれの上着なんぞはもう30年も前に買ったものだぞ、お前」などとよく言った。30年も着込んだ上着など、さぞ体になじんで具合がいいだろうな。どうせ買うなら、おれもこの先30年着られる上着を買いたいものだ。しかしそれには、一万円かそこらで見繕っているようではだめだろう。いいものにはいい値段がつけられるという世のなかの基本原則は、実際のところものの価値というものがすっかりでたらめになった今時でもまだある程度は有効だろうと信じている。いいか、おれはもう勤めをやっているんだ、金の使いかたというものを考えなくてはいけないぞ。むだな買い物というのはよくよく慎まなくてはいけないんだ。

 それにしても、おれはどうして歩いているんだ。やはり車で来ればよかったじゃないか。車で来れば、そもそも上着なんかいらないんだ。セーター一枚着ていればいい。かばんだっていらないくらいだ。歩いたり、電車に乗って移動しようとすると、急にそういうものがいるように感じられてくるんだ。静岡より少し車が多くたって、道路に出てしまえばなんてことはない。車の運転なんていうのは、簡単なものだ。埼玉も静岡も、走ってみれば似たようなもんだ。やはり車で来ればよかったんだ。一人前の自覚が足りないから、学生のころみたいに電車なんかに乗ったりするんだ。まぬけなかばんをぶらさげてな。かばんに入れるような持ち物なんか、実際ありはしないじゃないか。

 だいたいが、申し込みの用紙一枚のためにわざわざ役所に出向かなくちゃいけないのが、そもそもおかしいんだ。オンラインでの申し込みか、せめて記入用紙のダウンロードをホームページに用意しておいてくれれば済むことなんだ。この今時に、どうかしているよ。脅迫状めいた年金の振り込み用紙は言わなくたって向こうから送りつけてくるのに!まったく市民をばかにしているよ。

 でもまあいいさ。たまには歩いてやるのもいい。足の筋肉も、このごろは車のペダルをふむ以外にこれといって仕事がなかったから、いい運動になるさ。そう思えば、歩いてきたのも、まあ悪くなかったじゃないか。おれの判断はいつも間違うが、間違いのなかにも、すこしはいいことが収まっているものなんだ。

 

 役所は閉まっていた。いいさ、そんなことだろうと思っていたんだよ。今日は土曜日だしな。土曜日と日曜日には、勤め人は休む権利があるんだ。おれだってこうして休みを満喫しているところさ。申し込み用紙の件は、また月曜に電話でもしてみればいい。

 そうと決まれば、上着を見に行くべきかな。おれは本当に上着を必要としているか?だって今こうして着ているじゃないか。こうして風を防いでいる。立派なものだ。それにもっと寒ければ冬用のコートもある。オートバイ用のウインドブレーカもある。おれはだいたいものを持ちすぎているんだ。昔からの悪い、恥ずべき習慣だ。おれは節制というものを知らなくてはいけないんだ。余計な買い物を慎むということを、おれは覚えなくてはいけないんだぞ。収入には限りがあるんだ。漁師のような、獲ったぶんだけ金になるというような単純なしくみのなかで働いてみたいものだ。おれはそもそも本当は単純なもののほうが好きなんだ。ああ、おれの家が海の近くにあったら、毎日舟に乗って海へ漕ぎ出すような生活をしたんだがなあ!いまのおれときたらどうだ?車に、電車に、歩きだって。波の上を舟がすべっていく光景を思うと、黒い道の上を歩いたり、車のペダルを踏んだりするのなんてなんにも意味のないことだ。そんなものでいくら移動したって、無価値な移動だ。舟ほど自然と一体で美しい乗りものはない。舟を漕いで暮らすような生きかたを、いつかしてみたいものだ。

 「うん、そうだな」私は歩きながら口に出して言った。

 

えびP

アイマス

 アイマスMADはいつでも楽しい気持ちでやるべきものだ。「遊びだからこそ真剣に」などと私は思わない。始めから終わりまでいいかげんに好きなようにやっていい自由があるからこそ遊びは楽しいと思うほうだ。好きに始めて、いつでもやめられる自由がある。今はアイマスそのものが大変な情報量を毎日のように発信していて、それを追うだけでも大変だから、とてもMAD動画にまで関われないという人も多いだろうし、それはかつて2007年に夢見た未来のアイマスの姿そのもののようでもある。ああ2015年、私たちは確かに未来を生きている。鳴り止まない!とわざわざ声高に叫ぶ必要ももはやないほどアイマスは盤石だ。えびPがひとまずアイマスMADをやめると決めた理由はもちろんいろいろあるだろうけど、そういうところがひとつの後押しになったのかなという気はする。

 NRRRというタイトルの、アイマスMADを紹介する人気のネットラジオ放送がかつてあって、えびPがよくそれに出ていて、私がえびPと同期であることを知ったのもこの放送でえびPがそう言っていたからだ。同期の身贔屓なのかなんなのか、拙作もよくこの放送で低音の魅力ある声で紹介していただいては褒めてもらっていたのを今も覚えている。楽しい思い出だ。動画にコメントを貰うのとは一味違ううれしさがあった。

 

 えびPの動画をあまりまじめに観てこなかったことを少し後悔している。同期と知っていたのなら、新作が投稿されればとりあえず観るくらいの義理はあったかもしれない。もしまたえびPの気分が変わって新たに動画を作ることがあれば、きっと観るだろう。そういう日がいつかあるだろうか。どうあれちゃんと自分で区切りをつけれられる人は偉いなとも思いながら。