梅を見に行きたくない

車の運転が好きじゃない。以前はそうでもなかったと思うけれど、自動車で移動するということ自体が良くないといまは感じる。車で通勤していて、畑のわきに白梅が咲き始めているのが目に入り、きれいだなと思う暇もなく視界の後ろに流れていく。それが嫌だ。

これが徒歩なら、たとえ通勤中でも、10秒でも5秒でも立ち止まって眺めることが容易にできる。自転車でもできるだろう。車の運転中にそれはできない。生活の移動手段として自動車というのは大きすぎ、速すぎる。可能なら乗りたくない。買い物袋を下げて家に帰る道に、香を感じて首をめぐらし、少し暗い路地の奥に白い花を(べつに紅でもいい)付けて密やかに立っている梅の木を見つけて、静かに近づいて対面したい。車の暮らしにはそういうシーンは起こり得ず、自分が街の一部として暮らしているという気がしない。

 

休みの日に散歩に出て、梅ても桜でもじっくり見たらいいと思うかもしれないけれど、それではダメである。だいたい散歩が好きじゃない。あてどもなく歩くということが自分はどうもできない。無目的な外出、目的地なき移動というのが、どうも面白く感じられない。"街をぶらつく"という言葉の意味もいまだに理解できないでいる。しかしだからといって梅の花は、それ自体を行動の目的地とするには弱いのである。

季節の花は偶然に出会うべきものという思いがある。花を見るという意思を持って自ら出会いに行けば、花というものが自然にまとうはかない神性は失われてしまうように思われる。それでは本当に花を見たことにはならないような気がする。偶然に、できればなにかの用事の帰り道に、花を見つけて立ち止まりたいものだなあ。

 

むかし高校生のころ(高校生のころを「むかし」と呼ぶことにほとんど抵抗がなくなったことに対して感慨がある)、バス通学だったが、少し遠回りして歩くとべつの電車路線があり、そちらで通う友人がいたので、帰りに付き合って歩くことがあった。途中、桜の木があり、どういう時期的なタイミングだったのか、ほとんど満開のようなときにそこを通ったことがあった。

記憶によれば、自分はしかしそのとき立ち止まって桜を見上げることはしなかった。花よりも、次の列車の時刻に間に合うかどうかのほうが大事だった。ひとつ遅れれば次の列車まで10分も待たなければならなかったからだ。

あるいはただ花に興味を惹かれなかったのかもしれないし、花を見るためにわざわざ足を止めるという行為を気取っていると感じて避けたのかもしれなかった。実際、気取っている。老人でもない人間が、スマホも構えずに花をつけた街路樹をじっとみつめていたらまず気取り屋か樹木医のどちらかだ。しかし今になって、もう少し気取っておいても良かったなと思う。車の運転中には、詩情と博愛の繊細な感性を気取る暇もないのである。それが嫌だ。

 

そういうわけだから、車の運転をする必要のない暮らしをしているみなさんはぜひその幸福に思いを致して、日々の行き帰りの道すがら、春を告げる白梅の花を偶然に見つけたら、数瞬立ち止まり、明治の文人がごときに気取りくさって眺める余裕をいつも懐に持っていてほしい。そうした行いに、列車1本分の時間に見合う価値があるのかどうかを保証することはできないけれど。

■2015-25頃

:書きかけで放置していた雑多な下書き

 

■.

 アイドルマスター・シンデレラガールズのアニメは第1話と第2話で別の作品のようで、私は断然第1話が気に入っているんだけれど、第2話を観た限りでは第1話のような話はもう作られないように思われて、とても残念に感じている。

 

 私はアイマスが好きなのに、アイドル業などというのは若い女の子に縄をくくりつけて金を稼がせる屑みたいな仕事だと思っている。高木社長は人物としては好きだけど「アイドルとは…」みたいなせりふを話しているときは何いいかげんな事言ってんだこのオヤジって思いながら聞いているし、律っちゃんやアニマスのバネPがプロデュース業に熱意を燃やすのを見ても一度も共感したことがないし、ジュピターや玲音ちゃんやプロデューサーの自分がアイドルの頂点がどうのとか息巻いているゲームのシーンなどは、コイツ頭がおかしいんじゃないかって笑いながらじゃないと気恥ずかしくて見ていられない。

 あずさがアニマスの第26話で結婚しますって冗談を言ったときは本当にそうしてほしいと心から思ったし、私があずさを好きなのは、そもそもあずさは運命の人を見つけるのが目的で、アイドル業そのものにあまり興味がないキャラクタだったからかもしれないと今になって思う。

 アイマスに登場する女の子たちをかわいいと思えば思うほど、アイドルになんかならず健やかな世界で生きていてほしいと願ってしまう矛盾を抱えながら、もう何年もアイマスを見続けている。女の子たちはみんなアイドルになりたがり、努力を重ねて、泣いたりしながら、身体から光を放って、その輝きの向こう側のどこかへ消えていってしまう。それはふつう、アイマスの感動どころとして言われることだと思うけれど、私にはただ自分好みではない浮世離れした世界の話だと感じるばかりだ。

 

 だから、シンデレラガールズの第1話が私は好きだった。学校へ通い、通学路を行き来し、母親に電話するヒロインの、地に足のついた日常描写がとてもよかった。伝統的に、アイマスにはそういう表現がとても少ないから、余計に価値を感じる。アイドルという特別な時間を生きるために生まれたキャラクタの、特別でない人生の時間が描かれると、その子は自分と同じように生きているのではないかと錯覚させられる。私はそういうのにとても弱かった。

 でもたぶん、この先はこういう描写はなくなるか、とても少なくなるだろう。アイマスの女の子たちはみな、日常の世界を離れて輝きの向こう側へ行くことを宿命付けられている。本当のところ、私の知っている世界とはかけ離れた、興味も沸かない世界だ。同じ衣装を着てステージに立つ女の子たちは、私にはどれも同じように見える。『お願い!シンデレラ』のPV映像よりも、花屋で店番をしている凛の姿のほうが、私にはずっと魅力的だ。

(2015頃)

 

■.

 絵をトレースしてその絵で金銭を得ることが著作権法によって禁止されているのだとして、法律違反だからという理由で彼は怒られているのか。あるいは「ズルい」から、倫理違反の面で批判されているのか、よくわからない。法律違反だからという方の話で行くと面倒なのがそもそも二次創作の世界は世界がまるごと厳密には違法であるらしいということで、違法の上に成り立っている世界の中でそれは違法でけしからんというのはマヌケっぽく見える、と外野的なポーズをとる人びとは揶揄する。実際どうなのか。

 ズルをしてお金を儲けてそれを悪びれず俺は社会における一端のものだとでかい顔をしている連中はいくらでもいるし、彼らが逮捕されたりはしない。であるならば、実利のことだけを考えるなら、やるほうがアドであると言える。たとえば私がそういうことを今のところしないでいるのは単にズルをしてお金や人脈を得る方法を自分の立場の中から見出せない程度に愚鈍であるからというだけのことで、もしそういう道が見えたとき、それに逆らうほど強い倫理を自身のなかに保ち続けられるかどうかはわからない。彼はとても行動力のある人だったようだから、そういう道を意識的に見つけるでもなく自然と踏み込んでいったのだろうという感じをなんとなく受ける。あるいは単に虚言癖とか、心的な病気である可能性もあるけどそんなことは全然わからないし知りようもない。

 端的に言えば彼がなにをしてもそれは彼自身の魂の問題でしかない。受け取る側が、彼の行動に対してとやかく言うようなことなのか、私にはよくわからない。やはり法ではなく倫理の問題であるように思う。倫理と、ズルいという感情。よく向き合い、吟味すべきなのは我々自身のなかから絶えず生まれる「奴はズルい」という声のほうであると思う。倫理的であるということが臆病で蒙昧な人間の言い訳であるかのようにさえ言われる世の中だから、人びとはズルい人間に攻撃的になる。やったもの勝ちがまかり通ってほしくないという気持ちがあふれるが、果たしてその怒りの根っこはどこにあるのか。

 アイマスMADでそういう話って聞いたことないな。私が知らないだけで過去にはあったのかな。一匹狼といえば聞こえはいいが実際ただのインターネット浮浪者でしかない私には、こういうトラブルは別世界の出来事だ。しかしそれが結局一番健全であるようにも思える。

 

■.

 海に行きたいといつも思っているのにもう何年も行っていない。

 いま住んでいる街は山の中だが、車で2時間くらいあれば太平洋へ出られる。行こうと思えば毎週末でも海へ行くことができるのに、私は海へ行かない。なんとなくひとりで行こうという気にならない。かといって誰かと行きたいのかといえば、誰の顔も思い浮かべることができない。私の海には目的がない。

 海へ、ただ行くのではなく何かを成し遂げたことの象徴の景色として海を見たいと思っている。

 

■.

 インターネットは、SNSは、概念が実物の上に立つ場所であることを忘れてはいけない。それが悪いものであるかどうかの判断は別のこととして、少なくとも、そういう場所であるということそれ自体について、ここにいるときの私はいつも自覚していなければいけない、と思う。

 

■.

 毎日朝起きて会社へ行くという、きわめて平凡で平和的な生活でさえ疲れるし大変だなと日々感じているのに、これが戦争で徴兵でもされたらどうなるんだろう、戦闘以前にとても心身の健康を維持できるとは思えないということをよく考える。

 どこの誰だか知らないやつが突然上官を名乗り自分に命令を下す。それはたいがい大声で威圧的と決まっている。そういう声にしかたなく従い、トラックに押し込まれてどこかに連れて行かれる。敵のいるところへ。粗末な食事に寝床。休息は常に最低限で、不定期。砲音が聞こえれば、何時いかなるときでも銃を持って飛び出していかなけれないけない。爆発音と煙。穴の空いた地面が焼ける熱も感じるかもしれない。それは特撮の効果などではなく、銃を持った自分たちを殺すために、自分たちに向かってまっすぐ放たれた砲弾であり、それが偶然に外れたに過ぎないものであるということを、地面の振動とともに初めて実感する。自分はいま、他者から殺意を向けられているのだとそのときようやく理解して、自身の置かれた、それまでの生活から完全に隔絶した状況の異様さに慄き、しばらくして、恐怖と絶望感に支配される。そういう自分の姿を想像する。

 戦争が始まったばかりのころ、ウクライナから避難しようとする男性を、軍の徴兵係がつかまえて「この臆病者を見ろ!」と人びとの前で吊し上げる動画を見たのを覚えている。彼は結局、一緒に避難しようとしていた家族とその場で別れを告げて軍に連れられていったらしいけれど、言葉に言い表せない気持ちがこみ上げる。

(2022頃)

 

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 トートフ・ロドルが白熊のサーカスを見ながら食べていた大きなボウルのスープにいまも強いあこがれがある。

 『或る旅人の日記』は自分にとって旅というものへの理想的なイメージとして強い印象を残した。もう20年も前に見た、ほんの短い映像集であるのに、今もなおトートフ・ロドルと彼の旅したトルタリアの土地の風景が心のなかにある。おだやかで、開放的で、神秘的で、静謐な、草原、荒地、焚き火、街、人びと、駅舎。旅行をするなら、行きたいところはあの土地以外にないといつも思っている。Googleマップで行きかたを調べられる土地は、Googleマップで行きかたを調べるだけでもう半分興味を失ってしまう。だからというわけではないけれど、もう何年も、自分の時間を自由に使える暮らしをしているのに、ほんの数えるほどしか旅行をしていない。旅行に行きたいと、いつも思っているのに。

 

■.

 塔の世界とそこへ誘うアオサギがおおむね眞人の空想の存在であるとすれば、アオサギというのは美しい姿の皮をかぶった眞人自身の分身、『ゲド戦記』におけるハイタカの影という見方ができるのだろうかとふと思った。

 

■. ちょびっツのころ

 懐かしい~と言いかけて、やめる。たしかに20年以上前に見たアニメだけれど、本当に自分は「懐かしい」と思っているだろうか。

 なにかを懐かしいと思うとき、そこには当時と今の自分とのあいだにある種の断絶があることに気がつく。記憶があいまいになっていたり、対象への感じ方が変わっていたり、当時は認識できなかったことがわかるようになっていたり。

 ちょびっツがテレビで深夜放送されていた2002年の自分と、いまの自分とのあいだにそのような断絶、変化、あるいは成長と呼ぶようなものがあるかというと、あまり実感しない。全然ないとは言わなくとも、5歳から15歳への変化ほどの、断絶と呼べるほどの劇的な精神の変化があったようにはどうも感じられない。あのころ、俺は若かったな…という意味合いの表現を、自分はいまだ一度も使う機会がない。前に見たアニメが、久しぶりに再放送されている。懐かしくはない、久しぶりだなと思って、ちょびっツを見ている。

 

■.

 ただ恐れている。社会の枠組みの外へ出てしまうことを恐れているので、私たちは否応なくAIを受け入れ、半信半疑で株式投資に参加し、渋々キャッシュレス決済で支払い、仕方なく電子書籍を読み、脳をアスファルトに擦り付けるように、SNSをスクロールし続けている。

 

■.

 どんぐりを道に置いて車に踏ませるカラス、僕が子供の頃(90年代)にはあんなの見たことがなかったと思うけど、いまはどこの地域のカラスも基本テクのようにみんなやっていて、社会性の高さというか、技術や文化の伝播って動物にもあるんだなといつも感心する。最近のクマは人を怖がらなくなってむしろ積極的に”狩り”に来てるかもという話を聞いて、そのことを連想した。彼らは多様なコミュニケーション手段を持っていて、生き物とは本来そういうものであるはずだけれど、インターネットに浸りきった私たち人類はインターネットによってコミュニケーション不全に陥りつつあるように見える。人間同士も、自然に対しても。

 

 ガンダムが反戦アニメだと思ったことは一度もない。戦争を賛美しているとまでは言わないけれど、「結局戦争って止められないし、戦闘兵器ってかっこいいよね」とは言っていると思う。ガンダムがアート作品ではなく商品である以上、そこに描かれるのは作り手のメッセージではなく私たちの見たいものであり、それは結局戦争なのだから仕方がないのだけれど、そうではない人間、いつも戦争が見たいわけではない人間というのも少しはいて、つまり、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』において、中立コロニーサイド6に暮らす戦後世代の少女の日々という、地に足のついた(比喩)物語というのを劇場で先行上映を観た私は期待したりしていた。ガンダムがそんなのであるわけがないことを一瞬忘れるほど、宇宙から降り注ぐ太陽光できらめくコロニー都市を俯瞰した映像は美しかったことだけが今も記憶に残る。

 

■.

 作業中にJ-Waveを聞きたくて、radikoのエリアフリー・サービスに加入した。ここ山梨においては、ラジオといえばNHKかFMFUJIしか聞こえてくるものがない。とはいえ、僕はべつだん習慣的なラジオリスナーでもなければJ-Waveのファンでもなかった。僕が聞きたかったのはつまりJ-Waveではなく、J-Waveというチャンネルが醸している都会の音そのものだ。

 J-Waveももう古いチャンネルで、天気予報、交通情報、ヘッドラインニュースのジングルは僕が大学生だった20年前から変わっていない。あのやる気のないグルーヴラインはやっと終了して別の番組に変わっていたけれど、チャンネル全体から醸される「東京的な感じ」は昔のままで、どうもこの音を聞くと僕はなにやら感慨を覚える。東京には特になんの思い出も、思い入れもないにもかかわらず、東京の空気を少し離れたところから感じるのは昔から好きなのだった。これは典型的な田舎者の感覚だろうか。

 

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 最近『SPYxFAMILY』を観始めたので「星野源の曲はすごくいいのに星野源のボーカルがあまり好きではない、というか星野源があまり好きではない」問題にふたたび直面している。

 それに、ヨルという人は穏やかで優しい人のようでいながら仕事だからって平気で人を殺して、本人も殺しということに関してとくにこれといって思うところがない人物であるということがずっと引っかかって、いまいちフォージャー家のあたたかな団欒の描写に浸れないでいる。彼女は、自身が愛情を向ける相手以外の他者を同じ人間と認識しない種類の人のように見える。他者をそのように切り分ける認識の仕方は今どきっぽくはあり、自身の心の平和を守る方法として推奨するような意見も見かけるけれど、僕にはそれは病的なことに思える。

 僕らが自分自身の日々の暮らしとは無関係である遠い外国での戦争や殺戮のことを気にかけたり非難したりすべきなのは、結局のところ本当は僕らの暮らしに関わるからだ。弱者に対する暴力になんらペナルティが課せられず、強者は無制限に他者を支配し他者から奪うことができる、そういうことが社会全体から実質的に容認されているというメッセージが、ネットを通じて毎日僕らのもとに送られてくる。そういうメッセージはいつしか僕らの内面に入り込み、自身の思考と行動に知らぬ間に溶け込んでゆく。僕はそのことがとても恐ろしい。それは感染症のように静かに罹患し、人の精神の内にひそんで増殖していくからだ。それに対抗できる強い免疫力を持った人ばかりではないことは見ての通り。

 なので、個人の手に負える範囲を超えた世の悪事に対して、ほんとうは然るべき立場の人々が、然るべき非難をしてくれないと困るのである。

(2025)

 

■.

 カチカチ。パン屋の入口で、右手にトレー、左手にトングを持ち、鳴らす。パン選びの冒険に乗り出すこの瞬間は、大人になっても失われずにいる数少ない、とてもささやかな、心のはずむ愉しみだ。

 トングをカチカチと鳴らすのはパンを威嚇して掴みやすくするためという定番のジョークがあるが、僕の見解は違う。僕たちはトングに適当な力を加えて、アボカドの熟成具合を確かめるのと同じ手つきで、口の固さを確かめている。パンを傷付けず、適度な挟力でパンを取り上げるための予行演習として、トングを鳴らすのである。パンを脅すどころか、パンとパン職人への敬意、そして繊細な商品を丁寧に扱おうというマナー意識の発露であるというのが僕の意見だ。カチカチ。

 

 

 

:眠てぇなこいつって感じだ。でも日記ってそういうものだから……

記憶

 そのころ自分は大学を出てもなにもせずアイマスDLC代を得るためのアルバイトをするだけの日々だったけれど、なにか自分のやりたいことを見つけて生きたほうがいいなと思い始めたきっかけが3.11だった、ということにしている。

 実際にその後アルバイトを辞め、自分にしては一念発起して学校に入り直し、木材加工の勉強を始めたのはそれから3年後のことであり、直接のきっかけはアルバイト先の店長から社員にならないかと誘いを受けたからであった。そこで初めて、自分はこのまま八百屋さんになるのだろうか。それは自分の望む生き方、職業だろうか。もし今からなんでも好きな職に就けるとしたら、自分は何になりたいだろうか、といったことを急に考え始めた。幼稚園のころ、お誕生日カードかなにかに書いた将来なりたい職業の欄に、大工さんと書いたことをそのとき思い出していた。

 

 恐ろしい映像なんて、良くも悪くも見慣れている。津波の映像はもちろん非常に恐ろしかったが、地震の直接的な被害をなにも受けなかった東京圏にいた私には、ニューヨークの9.11の映像を見たときと同等以上に恐ろしがるのは難しかった。ニューヨークも福島も、テレビの向こうの遠い土地の恐ろしい出来事であるという意味で同じだった。一時間前に震度5で全身を揺さぶられていたにもかかわらず、やはりそうであった。

 あれを見てもなにも感じない、なんの変化も自身の内面に起こらない、などということがあっていいはずがない、人として恥ずべきこと、恐るべきことだという意識が、自身にそのようなナラティブを作らせたと思う。恥ずべきことだ。