ギラ・ドーガのパイロット

 

 逆襲のシャアhttp://www.gundam-cca.net/


 小惑星アクシズの地球落下が決定的になったとき、アムロガンダムでその大隕石を押し返そうとする。その無謀な姿に心を打たれたのか、一緒に戦っていた地球連邦軍モビルスーツ部隊も、敵との戦闘を放り出して次々にそれに加わっていく。そこで不思議なことが起こる。その様子を見ていた敵軍であるネオ・ジオンモビルスーツまでもが、どういうわけか一緒になって隕石を押し始めるのだ。私はいまだにこのシーンの意味をちゃんと理解できていない。

 そのモビルスーツギラ・ドーガパイロットのひとりがアムロに通信する。「地球がだめになるかならないか、やってみる価値はありますぜ」そういうけれどあんた、今のいままでその隕石をまさに地球に落とすためにがんばってたんじゃないのか。急に、ほんとうに急にどういうわけなんだろう。作中ではサイコミュという、人の意識をテレパシー的に通い合わせる現象が描写されており、アムロと地球の人々の強い想いが敵であるジオンのパイロットにまで影響したというふうにも解釈できるけれど、作中ではあまりはっきりしたことは描かれない。説明はなく、ただ行動だけが描かれる。それはたぶん富野監督作品の特徴であり、キャラクタに人間らしさを与えている。人は必ずしも自身の行動について理由や動機を説明しない、あるいはできないものだからだ。うまく言えないけれど、あのパイロットの行動はあの瞬間においてとても人間的で、理屈ではなく感覚的に自然な成り行きだと思わされた。

 

 サイコ的な理由は置いといて、彼らが土壇場で立場を翻したのはなぜだろう。想像するに、彼らネオ・ジオン軍の、少なくとも末端の兵士は地球寒冷化の作戦にそもそもそれほど賛成ではなかったのではないかと思う。

 スペースコロニー生まれの生粋のスペースノイドであっても地球はなお魂の故郷であり、一年戦争でも地球は破壊ではなく占領目標だった。そんな地球の環境を完全に破壊し死の星にすることで地球人類を抹殺するとシャアが言い出したとき、ジオンの、スペースノイドの人びとはそれをどのような心境で受け止めたんだろうか。かなり複雑な気持ちだったのではないか。

 シャアはいわばスペースコロニー世界におけるサラディンに成り得た人だった。地球連邦を宇宙から追い払い、コロニー社会を独立へ導いてくれる英雄であることを期待されていたはずだ。しかし彼は、彼の心の深いところには、すでにずっと前からジオンもコロニーも人類もなかったのだろうと思う。ダイクンの息子でも、赤い彗星でも、ネオ・ジオンの総帥でもなく、彼というひとりの人間を認めて、その魂を現世に留め置いてくれる存在、彼が母と呼んだ存在を過去に二度失い、あとに残ったあらゆる情念を彼は連邦への憎しみへと象り、その象徴がアムロであり、彼を殺す夢だけを糧にして生きる憎悪の機械であった。人間としてはすでに抜け殻のような人間。それがシャアであった。彼は気がつけばウサマ・ビン・ラディンに成り果てていた。

 彼の拠点であった貧民コロニー、スウィートウォーターは別としても、大半のスペースノイドにしてみれば、連邦は憎いし奴が暴れて一泡吹かせればいい気味だが、かといって自分とは関係無いしスペースコロニー世界全体があのような急進的な狂人と一心だと思われるのはごめんだ、勝手にやってくれというくらいのものではなかっただろうか。

 

 かのギラ・ドーガパイロットもまた、ジオン人として、スペースノイドとしての魂の根を張らせた普通の人間であったに違いない。ジオンを、スペースノイドの誇りを、家族を守るために兵士になったはずであったものが、気がつけばシャアという狂人による狂気の無差別殺戮計画のために働かされていることに気付いた彼の心情はどのようなものであったろう。赤く燃えて地球へ落ちていく巨大な隕石。物心ついたときからずっと憎し愛しの相混じる心で見上げ続けた青い星が、自らの行いの結果によってこのあとものの数分で永遠の地獄に変わる。その瞬間、その境界線にいま立ち会っているという、現実離れした状況。おれは何をしているのか。残弾は。仲間の生き残りは何機だ。艦隊は無事なのか。帰るところはあるのか。ラー・カイラムは、ガンダムはどこへ消えた。総帥のサザビーは。あの光は。

f:id:rinne05:20210420001255j:plain

 

あの光はなんだ

 

 そうして彼は自らの属するネオ・ジオンを裏切り、シャアを裏切り、ひとりの人間としての決断を下し、それにより最期を迎えた。私は短くも印象的なあのシーンが好きだ。

 

 

 

 

シンエヴァ

 ひとつだけ、こうしてほしかったというのがあるとすれば、あのラストシーン、とてもハッピーエンドではあったんだけれど、私はあの駅の階段をシンジくんがひとりで登っていってほしかったと思う。

 手をつないで一緒に歩いていける他者がいるということそれ自体、シンジくんの大人の証であるということもわかるし、人は一人では生きられないということはずっと根底のテーマであったと思うから、そのエンディングとして美しい収まりであることはとても感じた。

 そういえば新世紀エヴァンゲリオンの第1話はシンジくんが第3新東京市のモノレール駅に一人で降り立つところから始まったんじゃなかったっけ。なんて美しい対比なんだとますます思う。

 そう思うけれど、しかしやはり最後はひとりでいてほしかった。碇シンジくんというのは私たちにとっては、私にとっては20数年前からずっと孤独なこころを共有するイマジナリーな分身であり、友人だった。その彼が、美人で明るくて胸の大きな魅力的な人と階段を駆け上がり、画面の外に、アニメの外に消えていく。私はそれまでの間、それまでの20数年のあいだに、シンジくん以外の存在と孤独を共有する関係をもつことがついにできなかった。タイムリミットだったのだ。

 エヴァは、しかしそういう人間にも道を示してくれるのではないかという期待がずっとあったと思う。ひとりで生きていかざるを得ない人間に対しても、心強さのヒントを与えてくれるという希望。シンジくんだけでなく、エヴァの登場人物はみんな孤独を抱え、それを私たちに吐露してくれていたから。

 だからシンジくんに、それを示してほしかったのだと思う。 いろんな人と関わっても、最後はひとりで、どれほど頼りなくても自分の足で、自分の意志で、階段を登って、別の世界へ、未来へ、あるいは現実へ、前へ、進んでいく。それができるところを見せてほしかった。シンジくんにそれができるのなら、自分にもそれができるのかもしれないと思えただろうから。しかしそうはならなかった。彼はひとりではなかった。おめでとうとしか言いようがない。

 

f:id:rinne05:20210314232717j:plain

 

 彼という自分のいない世界をこれからひとりで生きていかなければいけないのかと思うと気が重くなる。寂しいね。

スタマスを待ちながら

 動かないということが、シャニマスにハマれないただひとつの理由だと思う。

 どれだけドラマチックな言葉のやりとり、物語の構成を見せられても、それらを演じる登場人物たちがただ画面の中央から動かないことで、それらの言葉は質量を、擬似的な質量を、本物らしさというべきものを発することをせずにただ流れてゆくように感ぜられた。

 それはもちろん、その質量を感じ取るプレイヤーとしての私の感受性の弱さの問題と言えるかもしれない。そういう問題は今は置いておいて、私の感じるところにおいて、画面の動かない物語を物語と認識することは困難だった。悪い言いかたをすれば、喋ってばかりで何もしない、怠惰な光景に似たものを見せられているような錯覚を起こさせた。会話の内容が濃密であるほど、むしろそうだった。

 画面がある、ということがむしろ物語への没入の妨げになっているかもしれないと感じている。これがはじめから文字だけのものであれば、違ったのかもしれない。

 

f:id:rinne05:20201218014018j:plain


 そもそもアイドルマスターに夢中になったのは単に画面が動いているからであったことをシャニマスを通じて私は初めて思い知った。それまで美少女ゲーム、ノベルゲームをまともにプレイしたことは一度もなかったし、それらとアイマスとの違いはキャラクターが動くかどうかという以外になかったと思うけれど、その違いは私が自分で思っているよりも大きなものだった。

 存在とは動きである、とカルロ・ロヴェッリという物理学者の本に書いてあった。キャラクタが踊り回り、画面の左から右へ、奥から手前に動くことで生まれる実在感の錯覚にこそはじめから私は心酔していた。画面を通じて伝えられる種類の物語においては、動くことこそが物語の核であり、またそうあるべきであるというのが私の感じかたであった。

 

 シャニマスの物語の緻密さへの執念はむしろ、私をアイマスに対する特別なコンテンツとしての信仰、実在感への夢から覚まし、無数の優れたフィクションのひとつとして認識を変えさせたと思う。それを私は幸福なこととして受け入れている。