逃げる夢

 そこはたしかに自分の家だけれど、迷宮のように広く、入り組んでいた。様々なものが散らかった物置きのようないくつもの薄暗い部屋、いくつもの階段、光が差し込んで部屋の壁を白く照らすいくつもの窓。小糸はいくつもの廊下をさまよって、その家から出る道を探していた。誰かに追われていたかどうかは覚えていない。追われてはいないけれど、彼女はなんらかに追われているような不安を抱えていて、それから逃れようとしていた。その迷路の家は、彼女を束縛するもの、自由を奪っているもの、不安を与えるもの、自身につきまとう緊張のすべてを象徴する存在のように小糸は認識していた。

 誰かに追われる夢、なにかから逃げようとしてどこかへ隠れる夢をたびたび見る。あまり健康に良い夢とはいえない。

 夢のなかで小糸が自分自身だったのか、小糸と一緒に行動していた誰かだったのか、誰でもない観察者の視点で彼女を見ていたのか、はっきりしない。その瞬間、瞬間で視点は変化していた。夢とはいつもそういうものだった。

 やがて、グリーンのフェンスで囲われた庭の、茂みに覆われて人目につかない裏手から、フェンスを乗り越えてとうとう家の外へ脱出する。あたりは夕暮れか、夜明け前のような鼠色の闇で、白い街灯が道路をぼんやり照らしている。小糸の心臓は高鳴っていた。それは不安と恐怖ではなく、自分がいま自由への境界線に立っていることへのかつてない興奮によるものだった。小糸は息を震わせながらあたりを見回して乗り物を探した。

 それがタクシーか、自身の運転する車か、あるいはバスだったのか判然としない。ともかく、それはグリーンの車体だった。その乗り物が、街灯に照らされた、薄闇の2車線の道を、全く知らないどこかへ向かって、小糸を乗せて走り出していった。小糸をとらえていた家は、もう背景のどこにも存在しなかった。夜の静かな町と、道路と、乗り物だけが彼女の意識を占めていた。

 シートに深く座り、乗り物の振動を感じながら、小糸は自身の胸を満たす安心と、自由への希望のよろこびが、ほとんど物理的な快感のように全身をめぐるのを感じて涙を滲ませた。半分開けた窓から入る風は暖かく、雨上がりのにおいがした。