君たちはどう生きるか

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 Twitterで、アイドルマスターシャイニーカラーズのことを『シャニマスくん』と呼ぶのと同じ心理で宮崎駿パヤオと呼んで何事かを言う人や、公開前の唯一のビジュアル情報であったアオサギのイメージイラストを超つまらないパロディにしておもしろがっていた人びとのことはものの価値や礼儀をわからない憐れな野人として片端からミュートする程度には宮崎駿を信仰しているので、当日はインターネットの情報を遮断してまったく内容について知らないままレイトショーで観ました。そのこと自体、たいへんおもしろい体験で、映画ひとつをこれほど楽しみにしたのも一生のうちこれが最初で最後ではないかと思う。

 

 宮崎駿イメージ全集という、カラーイラストで埋め尽くされた分厚い本があって、それを映像として見せられたというような作品だった。あらゆる場面、すべてのぺージが、彼のこれまでの作品のどこかに通じる、あるものはあからさまな、あるものは隠された通路のような、作品として生まれる前のイメージの世界を旅するようだった。

 キャラクターやストーリーはどのようにも解釈し得るし、どのように解釈されてもかまわないつもりで描かれているのは明らかだ。自伝であり、原作の再解釈であり、純粋な少年の成長譚としても見ることができる。明確で整合性のある(ラピュタのような)物語を好む人には不評だとしても仕方がない。けれど、宮崎作品において物語よりもイメージの魅力に重きを置く宗派の自分にとって、本作はまったく福音のような作品、インコの言うところの天国のような作品だった。

 見るだけで気持ちが安らぐ、あるいは浮き立つような風景、動作、建物、食べ物、乗り物、道具、空と雲、海、森、生き物たち。美しく塗られた緑色の木製扉。白い石造りの東屋。黄金色の太陽の光。そして久石譲の音楽。ふつうのアニメ映画の10本分くらいのイメージがあまり整理されないままに溢流のように押し寄せてくる。けれど眞人の行く塔の中の世界というのは作品以前のイメージの世界、生まれる前の命の世界、時間を超越した生者と死者の想像世界であり、まとまりのなさにむしろリアリティを感じた。眠るときに見る夢の中の世界だ。ふつう他人の見た夢の話ほどつまらないものはないが、宮崎駿の見る夢は宮崎作品そのものなので、その夢を、いわば商業的に整えないままに見せてくれたことは信じられないような奇跡的な体験だった。ファンタジーとして非常に抑制的だった”引退作”の風立ちぬを受け取ってから10年も経った今になってこんなものを観られたということの、いま自分が感じているこのよろこびの深さと大きさを、宮崎駿信者でない人に伝えるのは難しい。もう1,2度は映画館で観たいと思う。

 

 ジブリ映画のエンドクレジットに必ずあったはずの「おわり」の文字が、今作には見当たらない。誰がどんな夢を示したところで、人には理解されないし、世界は変わらないし、人生は終わらない。自分の時間を生きろと老人は言う。けれど、だれかの夢が、人の心になにかを残すことはあるかもしれない。それが、知らず知らずにその人の生きることを支えることもあるかもしれない。残したもの、伝わったもの、小さな白い石のかけらが、人を終わりない存在にする。作家としてのそういうささやかな望みを示すエンディングだったと受け止めた。できるかぎりに受け止めて、どうもこうも生きていくしかない。

 

 

 

 インコ大王に歓呼三声!のシーン。漫画版のナウシカで一番かっこいいシーンのひとつを、庵野秀明なんかにやらせるかという強い意志を感じてニコニコしてしまった。元気すぎる。もう一本いけるよ宮﨑駿!