スナフキンと俺

 引きこもりなのにアウトドア用品が好きで、アマゾンでいろいろ見つけては買ってしまう。まあ、アニメのDVDやPCパーツに何万円も注ぎ込むよりは健康的かなあなんて思いながらあれこれ。
 それで、中古のバイクを去年買ったのに全然乗っていなくてもったいないと思っていたし、今無職だから暇なのでキャンプ・ツーリングに行くことにした。もちろん一人で。一人旅ってかっこいい。それもバイクでなんて!かっこよすぎてまるで自分じゃないみたいだ。
 一人旅のことを考えると、いつもスナフキンを思い出す。一人旅、ソロキャンプ、バックパッカーの永遠のあこがれ。『ムーミン』を少しでも知っている人なら、みんな彼が大好きだ。物静かで、物知りで、思慮深くて、面倒見がよくて、決して何物にもとらわれない。けっこうバカばっかりのムーミンの仲間たちのなかで一番「話のわかる」やつ。私は昔から緑色が好きなんだけれど、それは一つにはスナフキンの帽子が緑色だったからかもしれない。そのくらい、ご多分に漏れず、私もスナフキンの生き方にあこがれ、うらやましく感じていた。
 そうだ、おれはとうとうスナフキンになるのだ。この旅でもって、おれは思慮を深くし、この社会と、世界と、宇宙について考えをめぐらし、ムーミントロールやスニフのように純粋で愛らしい子どもたちに出会ったら、焚き火をかこんで、彼らのみずみずしい感性に応えるような知見ゆたかな話をしてやり、ハーモニカを吹いてやるのだ。
 しかし、そういえば私はハーモニカを持っていなかった。アマゾンで買っていかなくては……


 結局ハーモニカは、どのみち吹けないので買わなかったが、それでも私のバイクの荷台は満載だった。テント、タープ、寝袋、折りたたみのイス、銀色のテント・シート、折りたたみのテーブル、ガスランプなどの小物類、折りたたみの水入れポリタンク、やかん、折りたたみのクーラー・バッグ、着替え、雨具……まだまだある。おかしいな、フジロックへ行ったときの倍くらいある気がするぞ。引っ越しでもするみたいだ。
 万が一にも、走ってる最中に荷崩れするなんて冗談じゃないのでロープでしっかり縛りつけた。ロープの扱いは少しうまくなった気がする。
それにしても、と私は思った。これはいかにもキャンプ・ツーリングという感じで見栄えは嫌いじゃないにしろ、これのどこがスナフキンだというのか。スナフキンというのは、一人旅をする身なのに、いや、むしろ一人旅をする身だからこそ、いつも身軽で、さっそうとしている。でかいリュックを抱えてヒイヒイ汗をかいているスナフキンなんて、一度も見たことないぜ。


 『ムーミン谷の彗星』という本がある。これがシリーズの第何巻目なのか、どうもよくわからないんだけど、たぶんこれが一巻目じゃないかと思う。わけあって、ムーミンと友達のスニフは一緒に天文台に出かけ、その行き帰りに、スナフキンスノーク兄妹と初めて出会う。それはいいんだけども、衝撃的な102ページ目が問題だ。
 スナフキンは初め黄色いテントを持っており、そこへムーミンとスニフがいかだで通りかかる。イラストを見るに、たぶんインディアン風の、一本支えの三角屋根のテントだ。そして黄色。ああ、想像するだに、なんて簡潔で、美しいテント。おれのテントときたら茶色で、どら焼きを半分に割ったような実につまらんやつだ。おれも欲しい、簡素で、軽くて、美しい、黄色いテントが……きっとそこに入れば、いろいろと有意義な思索を巡らせられるに違いない。アマゾンで探してみなくては……
 ともかく、その黄色いテントだけども、天文台の帰りのがけ道で、スナフキンは自らそいつを谷底へ捨ててしまうのだ。なにもべつに癇癪を起こしたとかではない。私の敬愛するスナフキンは決して癇癪など起こさない。彼いわく「それはいいテントだが、人間は、ものに執着せぬようにしなきゃな。」だと。必要のないもの、用の済んだものをいつまでも抱えて重い思いをするなんていうのは、実に愚かなことなのだと、かなり極端だけど、スナフキンはそう私たちに教えてくれている。もったいながって捨てるのを渋るスニフは、まさに私たちそのものだ。


 そう、おれはスナフキンなんかじゃない。おれはスニフだ。思慮が浅くて、ごうつくばりで、格好つけたがりで、何でも欲しがりやの小さな動物、それがおれなのだ。


 私は憂鬱な気持ちでタイヤの鍵をはずし、スタンドを引っ込め、バイクを道路へ引っ張りだす。重さと暑さでフラフラする。ああいったい、スニフがバイクで旅をしたって、なんになるだろう。彼にはハーモニカも、焚き火も、深い思索もありはしない。重い荷物、実際のところそのほとんどががらくたでしかない荷物を山ほど抱えて、ヒイヒイ汗をかきながらキャンプ場を往復するのが関の山だ。事実そうなる予感がして、胸が重くなった。ムーミンたちのような、期待と冒険心に満ちた旅立ちとは大違いだ。私はエンジンをかけ、カメラと、カーナビに使っているPSPにつなぐ予備バッテリーを忘れたのを思い出して、家に取りに戻った。


 スナフキンなら取りに戻っただろうか。



新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)

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おれが見たものはなんだったのか


サイリウムに触ったのは初めてだった。プラスチック容器の中の芯をポキっと折ると、サッと光り出す。もっと時間が掛かるものだと思っていた。その変化は鮮やかで、それでいて光は淡く、美しかった。21世紀のアイテムだと感じた。


でも、そうやってせっかく用意したサイリウムを私はほとんど振らなかった。席は狭いし、ステージを見ることに集中したかったからというのもあるけど、何よりも「光る棒を振る」というのは実際にやってみるとなんだかまるで幼児をあやすかのようで、出演者をバカにしているように思えて途中でやめてしまった。でも出演者にとっては、サイリウムの光の波がうねる光景がなによりの応援になるものだということはアニメでもよく描き表されていたし、実際そのようだった。ステージそのものではなく、会場の一体感を楽しんでいるようだった。会場の全員が知っている曲を歌い、しきりに観客に合いの手を呼びかけ、観客も一体となってそれに応えていた。受け答えは完全に取り決められていた。誰がいつ決めたのか、皆いつどこで練習したのか(L4Uで?)。まるで双方とも必死に『演者と客』ではなく、一つの『アイマス民』になろうとしているかのようだ。皆が振り回すサイリウムはとても明るくて、目が覚めるように眩しい。私は手元の「淡い光」をあらためて見直す。それはいかにも貧弱で、頼りない印象のものになっていた。


みんな共通体験に飢えているのだと思う。昔は……多分20年くらい前までは、人々の間には自然と共通体験があった。みんな同じテレビ番組を見て、同じ音楽を聴き、同じ年頃で似たような苦労を体験してきた。共通体験こそ、人と人同士で生まれる一体感の源だ。サッカーのワールドカップがあれほど盛り上がるのは、日本代表が強くなったからだけじゃない。今や貴重な、同じ試合の、同じチームを応援するという共通体験のための格好の題材だからだ。アイマスファンがアイマスのライブに第一に求めるのも、アイマスのライブに「参加」するという共通体験なんだろうと感じた。ライブの雰囲気を再現したがるアイマスMADが多い理由もわかる気がする。


……アイマスのライブ?あれは一体、アイマスのライブだったのか?確かに曲はアイドルマスターのものだったけれども、では私はステージを見ながら、ゲームの映像を重ね合わせたりしていただろうか。いや、思い返すとそんなことは一瞬もなかった。『約束』を聴いている間も、千早という名前は一度も浮かんで来なかった。目の前で歌っていたのは、確か今井さんという人であり、千早の声をあてている人だということはもちろん知っていたけれど、「千早が歌っている」とは感じなかった。歌っていたのは今井さんであり……本当にあの人が千早だったのか?同じ声だったっけ?同じといわれれば同じだったし、違うと言われれば違ったようにも感じる。同じことは、他の出演者の皆にも言えることだった。
一体、おれが見たものはなんだったのか。『アイマス』を生で見ようと思って横浜まで行ったはずだけど、私は一体なにを見てきたのだろう。


全体的に、特別上手いとは思わなかった。巷で言われるほど美人だとも。やはり無意識のうちにゲームと比べていたのだろうか。でも、そんなのは当たり前だ。今日のようなイベントは、どう言ったって、あの人達にとっての本業ではないのだし……そもそもゲームなんかと比べるのは間違いだ。ゲームの中のアイドルは、言ってみれば実際の人間には辿りつけない美のイデアを求めて創り出されたのであって、もしもゲームのキャラより美しいなんてことがあったらそれはもう人間ではないのだ。


しかし、そこで私は思い出した。ステージが開幕して、声優の皆さんが登場し、その衣装を見た時、私はなんと思ったんだった?「わあ、アイマスみたい」と思ったんだった。ライブのために新しく作った衣装なんだと言っていて、よく出来ていた。
ステージ上の彼女たちを、なんと見るべきなのか分からなかった。あれは伊織というツンデレ少女なのか?釘宮さんという声優さんなのか?皆は「くぎゅうぅぅぅぅ」と呼んでいた。思えば、他の誰も、役の名前で呼ばれることはなかったような気がする。「伊織ー」という声は、少なくとも私には聞こえなかった。ではあれは釘宮さんなのか。アイマスの衣装を着て、アイマスの歌を歌っていたけれど、話し方は伊織とは全然違って、穏やかで、控えめだった。他の皆も、役ではなく、自分としてステージに立っているようだった。一人、ゲームのキャラクタと容姿も話し方も良く似せて歌う律っちゃん、じゃない、若林さんという人だ、あの人だけ、むしろ浮いているように見えた。


ステージ上の彼女たちは、人間ではなかった。彼女たちは夢のなかに生きていた。まるで別の形のアイドルマスターを見ているかのようだった。あの人達は、ゲームのキャラクタとして生まれたイデアに追いすがろうと戦う生き方を選んだ人たちなのだ。普通じゃない。でも考えてみれば当たり前だ。普通の人間がアイドルなんかになるわけがないのだ。落合さんは、そういう意味で普通の人間だったのかもしれない。
坂上Pは、「10年でも20年でも続けたい」と言っていた。言った本人からして、やる気はともかくその現実性については半信半疑のようだった。人はキャラクタとは違う。どうあっても時間を重ねて変わっていく。滝田さんは、お子さんが生まれたばかりなんじゃなかったか?日高舞は引退したというのに、ゲームの上を行っている。その迫力で、ここまで来たのだろうと思う。


ライブの終盤、みんなは『いっしょ』だと、しつこいほどに繰り返していた。みんないっしょ、ずっと一緒、これからもずっと、一緒に頂点をめざして。そんなことはできないのだ。分かりきったことだ。今、この瞬間にいっしょなのは良い。それはすばらしいことだ。でも、「これからも」なんて、ましてや「ずっと」だなんて……いつかは霧散してしまうような、聞くだけむなしい言葉だ。頂点なんてどこにも見えない。いつかはみんな、今日の言葉は忘れたふりをして、どこか別々の道へと進んでいくのだ。現に落合さんはそうしたし、徳丸さんは我々を残して亡くなられたし、かりふらPはアイマスMAD用のニコニコ動画アカウントを消去した。
それでも、『みんな』は大歓声でそれに応えた。本当に心から、このライブのテーマを分かち合っているようだった。10年後、みんなどうしているつもりなんだろう。今日と同じくサイリウムを振り回しに来るつもりなのか。そしてステージ上の彼女たちは……。夢のなかでは、時間の感覚は希薄だ。7:65は夢の時間とはよく言ったものだ。夢の時間を貰いたくて、皆ここへ集まるのか。


これからどうなるんだろう。とりあえずこの先1年は、大きな事にはならないだろう。でもその先は?10年後は?もしも20年後まで続いていたら、それはかえって気味が悪いように思う。ガンダムじゃあるまいし。皆変わっていく。変わらないのはゲームの中のアイドルだけだ。でも一方で、ありえない事なんて何もないのだという思いもある。アイマスは新たにシンデレラガールズという機関銃を生み出した。アイマスという名前は続いていくかもしれない。それに、今のまま変わらないという可能性も、無くはないのかもしれない。なにしろアイドルは人間ではないのだから。それを私は今日知った。


サイリウムはいまだに光り続けている。会場では弱々しく、まるでぱっとしなかったけれど、こうして見ると淡い光がはかなげで、やはり美しかった。まるでアイマスみたいだ、と思いました。






アイドルマスター Xbox 360 プラチナコレクション

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アイドルマスター2 (通常版)

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6月24日に横浜アリーナで開催された、アイドルマスター7周年記念ライブ『THE IDOLM@STER 7th Anniversary 765Pro Allstars みんなといっしょに!』を見に行った感想ですって最初に書くの忘れちゃった。