アイマスと身体性


『輝きの向こう側へ!』
http://www.idolmaster-anime.jp/


 一番ぐっときたのは、グリマスの矢吹可奈ちゃんがストレス太りしちゃって、実際に本当にふっくら体型の絵で描かれていたところ。ちょっと衝撃的と言っていいくらい印象深かった。ギャグシーンでなく、本当に言葉通りに太ってしまったアニメの女の子って生まれて初めて見たような気がする。映画を通じてグリマスの女の子たちはみんな魅力的だったけれど、このシーンで私は矢吹可奈ちゃんがとても好きになった。


 私は、心の成長というのはあまり信じていない。信じていないというとなんだかずいぶん冷たい言いかたという感じがするけれど、つまり、映画の登場人物というのはだいたい、その物語の始めと終わりを通じて、問題を克服し、精神的に成長し、前とか未来とかいう目に見えないところへ向かって進んでいくもので、当然この映画もそうだったと思うんだけど、私は昔からそういうのを感じ取るのが苦手で、つまり結局、春香はどう変わったのか、それとも変わらないからうまくいったのか、よくわからなかった。心というのは目に見えず、音にも聞こえない。人が「心というものがある」と思い込んでいるからあるということになっているだけで、本当はどこにも存在しないのかもしれない、とてもあやふやなものだ。それを、映像と音楽のかたまりである映画というものでテーマとして取り扱うというのは、なんだか無謀でもあり、それをやりきれる作家たちの才能というのはすごいものだと思う。
心は身体と同じように成長するものなんだろうか。私はどちらかというと「三つ子の魂百まで」という諺のほうを信じている。春香は変わってない。だれも変わってない。変わったように見えたとすれば、それはその子の、今まで知らなかった心の一面を新たに見せてくれたということなのではないか。あるいは単に気分が変わっただけかも。ともかく、心というものが、まるで背が伸びるみたいに成長すると言い表せるものであるということを私はあまり信じていないので、そういうふうに解釈した。


 そんなふうだから、心の成長、心情の変化というようなものよりも、私はもっとわかりやすい、見た目の変化のほうにより関心が向かう。アイマス2で、髪の毛が伸びた真が好きだったし、背が伸びた亜美真美が好きだったし、プロデューサーになってスーツに着替えた律っちゃんが好きだった。春香が尻だけ2cm肥えたと話題になったけど、それはゲーム画面の見た目にはわからないのであまりピンとこなかった。心の成長、心の変化というものも、目には見えないから、本当にそうなのか分かるすべはない。でも身体的な変化は、そのまま、その子の時間の経過をひと目であらわしてくれる。架空のキャラクターには、本当は時間は流れていないことを私たちは知っている。だからそういう、「この子はあの時からいくぶん時間が流れている」と感じ取らせてくれる身体の、見た目の変化というのは、私にとってはとても重大で、アイマスでそういうものを感じられる瞬間があると私はいつも嬉しかった。
だから本当のところをいえば、私は貴音の大食いキャラがあまり好きではなかった。ただの非現実的なギャグにしかなっていない。実は出すほうもすごいんだとかいう描写でもあればまた別だけど、まあそうもいかない。貴音は食べるだけ食べて、太りもせず、お腹がふくれることさえない。まるでフィクションのアニメキャラじゃないか。私は貴音が好きだから、そういう描写があるたびに、彼女が作りものであることをいやでも思い出させられて悲しかった。


 だから、矢吹可奈ちゃんがお菓子の食べ過ぎで太ってしまう描写というのが、私はとても好きだった。身体が変化すると、その子は生きているんだなあと錯覚させてくれる。食べれば太るという、生きている人間にとっては当たり前のことが、アニメの女の子にも起こったことがとても嬉しかった。あの子たちは私たちと同じように、食べて、太って、ちゃんと身体に心を宿して生きているんだなという心地よい嘘を、あらためて私たちに信じさせてくれる素晴らしいシーンだった。アイマスは昔から、その嘘にずっと支えられ続けている。それを今回は春香でなく、グリマスから来た新しい子がやってくれたということが、思えばなにか象徴的であったようにも感じられる。


とてもよい映画だった。










 ただ、バネP、あいつはダメだ。何がダメって、服装をとうとう一度も変えなかったのがダメだ。映画では、美希や響の髪型が変わっているシーンが好きだった。律っちゃんのスチュワーデスみたいなリボンタイも、TVシリーズからまた時間がたって、心も服装も変わり続けていることを示してくれていて、とても似合っていて好きだった。合宿中も、劇中での季節の移り変わりによっても、みんな登場するたびに違う服を着ていて、私たちが生きて当たり前にしていることを、フィクションのキャラクターであるはずの女の子たちが同じようにしてくれているのが、私はとても嬉しかった。
それに比べてあいつはどうだ。アイドルではないからなのか、プレイヤーの分身だからなのか知らないが、ネクタイくらい変えたらどうなんだ。結局TVシリーズの第1話からこれまで着たきりスズメ。今日日のび太くんだって夏と冬じゃ違う服着てるっていうのに、おまえはフィクションのアニメキャラかっつーの!



記憶をたどって


Summer Daze

ksmgnさん / Nick Holder


これが私の思い出ではないことははっきりしているのに、どうしても何かを思い出させる。「思い出す」ということを促されるような気がして不思議だ。昔あった何か、小さい時に行った旅行で見たもの、どこかで聞いたような気がする音楽。この曲、たぶん初めて聞く曲なのに、絶対にどこかで聞いたことがあると感じるのも、記憶、思い出というものの印象に重なるようでとても惹き込まれる。
断片的な、という言い方をするけれども、実際のところ思い出というのに断片と呼べるほどはっきりした区切りはなく、頭のなかで、絵の具のグラデーションのようにすべてがぼやけてひとつに混ざり合っている。特に私は昔からぼんやりしているから、いつの記憶もあいまいで、先週のことも昔のこともあまりよく憶えておらず、昨日のことを10年前のように感じ、20年前のことを今日の昼のことのように思い出す。動画で印象的に取り上げられている、ステージの背景モニターの、なんて言うのかな、スクリーンセーバーみたいな光の演出を、画面いっぱいに出し、あるいはダンスに重ねて、視界がボヤーッとなる感じ、これが、あいまいで整然としていない思い出というものをとてもうまく表現していて美しい。
ずっと観ていると、気付かぬうちにまるで私の思い出の中にこの子たちの存在が入り込んで混ざり合うかのようで、そのうち私は春香と海へ行ったのは何年前だったかな、などと真剣に思い出そうとするようになるに違いない。

スナフキンと俺

 引きこもりなのにアウトドア用品が好きで、アマゾンでいろいろ見つけては買ってしまう。まあ、アニメのDVDやPCパーツに何万円も注ぎ込むよりは健康的かなあなんて思いながらあれこれ。
 それで、中古のバイクを去年買ったのに全然乗っていなくてもったいないと思っていたし、今無職だから暇なのでキャンプ・ツーリングに行くことにした。もちろん一人で。一人旅ってかっこいい。それもバイクでなんて!かっこよすぎてまるで自分じゃないみたいだ。
 一人旅のことを考えると、いつもスナフキンを思い出す。一人旅、ソロキャンプ、バックパッカーの永遠のあこがれ。『ムーミン』を少しでも知っている人なら、みんな彼が大好きだ。物静かで、物知りで、思慮深くて、面倒見がよくて、決して何物にもとらわれない。けっこうバカばっかりのムーミンの仲間たちのなかで一番「話のわかる」やつ。私は昔から緑色が好きなんだけれど、それは一つにはスナフキンの帽子が緑色だったからかもしれない。そのくらい、ご多分に漏れず、私もスナフキンの生き方にあこがれ、うらやましく感じていた。
 そうだ、おれはとうとうスナフキンになるのだ。この旅でもって、おれは思慮を深くし、この社会と、世界と、宇宙について考えをめぐらし、ムーミントロールやスニフのように純粋で愛らしい子どもたちに出会ったら、焚き火をかこんで、彼らのみずみずしい感性に応えるような知見ゆたかな話をしてやり、ハーモニカを吹いてやるのだ。
 しかし、そういえば私はハーモニカを持っていなかった。アマゾンで買っていかなくては……


 結局ハーモニカは、どのみち吹けないので買わなかったが、それでも私のバイクの荷台は満載だった。テント、タープ、寝袋、折りたたみのイス、銀色のテント・シート、折りたたみのテーブル、ガスランプなどの小物類、折りたたみの水入れポリタンク、やかん、折りたたみのクーラー・バッグ、着替え、雨具……まだまだある。おかしいな、フジロックへ行ったときの倍くらいある気がするぞ。引っ越しでもするみたいだ。
 万が一にも、走ってる最中に荷崩れするなんて冗談じゃないのでロープでしっかり縛りつけた。ロープの扱いは少しうまくなった気がする。
それにしても、と私は思った。これはいかにもキャンプ・ツーリングという感じで見栄えは嫌いじゃないにしろ、これのどこがスナフキンだというのか。スナフキンというのは、一人旅をする身なのに、いや、むしろ一人旅をする身だからこそ、いつも身軽で、さっそうとしている。でかいリュックを抱えてヒイヒイ汗をかいているスナフキンなんて、一度も見たことないぜ。


 『ムーミン谷の彗星』という本がある。これがシリーズの第何巻目なのか、どうもよくわからないんだけど、たぶんこれが一巻目じゃないかと思う。わけあって、ムーミンと友達のスニフは一緒に天文台に出かけ、その行き帰りに、スナフキンスノーク兄妹と初めて出会う。それはいいんだけども、衝撃的な102ページ目が問題だ。
 スナフキンは初め黄色いテントを持っており、そこへムーミンとスニフがいかだで通りかかる。イラストを見るに、たぶんインディアン風の、一本支えの三角屋根のテントだ。そして黄色。ああ、想像するだに、なんて簡潔で、美しいテント。おれのテントときたら茶色で、どら焼きを半分に割ったような実につまらんやつだ。おれも欲しい、簡素で、軽くて、美しい、黄色いテントが……きっとそこに入れば、いろいろと有意義な思索を巡らせられるに違いない。アマゾンで探してみなくては……
 ともかく、その黄色いテントだけども、天文台の帰りのがけ道で、スナフキンは自らそいつを谷底へ捨ててしまうのだ。なにもべつに癇癪を起こしたとかではない。私の敬愛するスナフキンは決して癇癪など起こさない。彼いわく「それはいいテントだが、人間は、ものに執着せぬようにしなきゃな。」だと。必要のないもの、用の済んだものをいつまでも抱えて重い思いをするなんていうのは、実に愚かなことなのだと、かなり極端だけど、スナフキンはそう私たちに教えてくれている。もったいながって捨てるのを渋るスニフは、まさに私たちそのものだ。


 そう、おれはスナフキンなんかじゃない。おれはスニフだ。思慮が浅くて、ごうつくばりで、格好つけたがりで、何でも欲しがりやの小さな動物、それがおれなのだ。


 私は憂鬱な気持ちでタイヤの鍵をはずし、スタンドを引っ込め、バイクを道路へ引っ張りだす。重さと暑さでフラフラする。ああいったい、スニフがバイクで旅をしたって、なんになるだろう。彼にはハーモニカも、焚き火も、深い思索もありはしない。重い荷物、実際のところそのほとんどががらくたでしかない荷物を山ほど抱えて、ヒイヒイ汗をかきながらキャンプ場を往復するのが関の山だ。事実そうなる予感がして、胸が重くなった。ムーミンたちのような、期待と冒険心に満ちた旅立ちとは大違いだ。私はエンジンをかけ、カメラと、カーナビに使っているPSPにつなぐ予備バッテリーを忘れたのを思い出して、家に取りに戻った。


 スナフキンなら取りに戻っただろうか。



新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)