読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『イヤー・アフター』

日記

 

えいすさん

 

 知ったような顔をして高いところからものごとを見下ろしてにやついているカンジのキャラクタっていつもは絶対好きにならないんだけど、ガルパン劇場版に登場した継続高校のミカはなぜかお気に入りのキャラクタの一人になった。ほかに好きなのは五十鈴華さんとアンチョビ。

 外から眺めつつもいざというときにはちゃんと前に出てきて体を張るというところを好感したのかなとも思ったけど、それよりもやっぱりダージリンの社交的なクールさとは違った、もっと根本的な、他人のすることへの無興味さからくるクールさというようなものが彼女らしさという感じで、そこがいいのかもしれない。戦車道には大切なことのすべてが…って妙に熱っぽいことを劇中で言うけど、あれは実際のところ言った本人はたいしてそう思ってなさそうというか、隣にいたアキをからかって言っただけなんじゃないかという印象が、映画を何度か観るうちに強くなってくる。

 だから、劇中から一年後のミカが石川の何もないところでひとりで小屋に住んでるというのはなんだか私の中のミカの印象にとても合うように思えて、マンガでは他にも色んな人の一年後の姿が出てくるんだけど、このミカのパートが私は一番好きだった。『或る旅人の日記』という好きな映像作品を思い出します。

 

 彼女にとっての戦車の季節が過ぎて、人里から離れて一人で暮らすミカというのが、冬の近づくムーミン谷から去ったスナフキンそのままという感じでおもしろかった。ミカを訪れたまほはまた彼女を戦車に誘うわけだけど、春の訪れとともに谷へ戻ってくるスナフキンと同じくミカもまた戦車道の世界に戻っていくのだろうか。

 あるいはまた、スナフキンがものごとに執着しない人物であることを思えば、ミカは一度降りた戦車にはもうすっかり興味を無くしていそうな気がするし、そのほうがなんだか自然に思える。それでもまほの誘いになんとなく乗り気なのは戦車でなくまほに会うのがうれしいからであって、それもまた、何にも執着しないスナフキンムーミンを親友として想っていることと重なって見える。「…また来てね」の”…“がとてもかわいらしい。

 

 ミカみたいに生きられたらいいのになと思う。私もいつか地の果てみたいなところで小さな小屋に住んでシチューを煮詰めて暮らしたいよ。作者のえいすさんも同じこと考えてこの小屋の絵とか描いたんだろうなというのがヒシヒシ伝わってくるようでたいへん(勝手に)共感しました。

 とてもよい漫画だった。

 

 

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)

 

 

もっと反抗してホラ

アイマス

 このごろはアイマスMAD紹介系ブログ界隈ってどうなんでしょうか。まだ活発にやってるとこってあるのかな。以前は私の動画もいろいろなかたに褒めていただいてずいぶんいい思いをさせていただいたものです。再生数が少なくても、やはり一人でも褒めてくださる方がいると、ああ投稿してよかったなあと動画が報われたように思えて、じゃあ次もという気持ちを起こさせてくれるものです。

 とはいえ今やXBOX360PS3世代の作品の時代は終わってしまったし、この動画に言及してくださるところもさすがにないと思うので恥を忍んで私みずから少しばかり書かせていただきます。(セルフプロデュース)

 ---------------------------------------------

変身、あるいは逃れがたき反抗

 

絶険、あるいは逃げられぬ恋


くわらんP

  

 真っていつも最初は「キャピキャピのカワイイアイドルになって男子にモテまくりたいです!」とか言うんだけど結局王子様アイドルとして成功してエンディングでは「まあ悪い気分じゃないし王子様なのも自分ですよね」ってPとファンに絆(ほだ)されるのがお約束で、結局一度も「キャピキャピでカワイイ」アイドルで売らせてもらえたことがないんだよね。本人あんなに望んでいるのに。アニマスでも雪歩とファンに全否定される始末。

 OFAにはキャラクタそれぞれの専用曲を作るというシナリオがあって、そこで真の専用曲として作られたのが『絶険、あるいは逃げられぬ恋』。宝塚を感じさせる完全な王子様曲で、たしかに真にしか歌いこなせないという感じはするしかっこいい曲だと思う。

 でもこの曲を聴いた私はものすごく不満だった。か、かわいくねえー!結局こういうの歌わされちゃうのかあ~!真ちゃんかわいそう過ぎるー!ええお前なに喜んでんだよいいのかいこれで!もっとたまにはPとか作曲家とかに文句言って拗ねたりしろよ!と思った。

 アイマスのアイドルがプレイヤーに反抗しなくなって久しいですが、かわいいアイドルにあこがれて、自分の信じるかわいさを不器用に追求する姿というのが真の一番かわいいところだと私は信じているし、自分が誰からも王子様としてを求められていると知っていてもカワイイであろうとすることを諦めない姿というのが真の一番かっこいいところだと信じているので、『絶険』を素直に喜ぶ真の姿は、もちろんシナリオ上のこととはいえけっこうガッカリするものがあった。

 

 『絶険』を選択してステージが始まったらなぜかふるふるフューチャーが流れだすくらいの意気というか反抗心というか、Pの野郎やファンやゲームシナリオの言いなりになるばかりでない気骨のあるところを見せてほしいという気持ちで上の動画を作りました。ぜひ観てね☆

 

 --------------------------------------------- 

 律っちゃんは真の熱意に折れる形で反抗に付き合うんだけど律っちゃんも実はキュート系好みなので内心ではノリノリ。千早は歌えさえすれば基本的にユニットイメージとかはなんでもいいので良いも悪いもなく付いて行くという感じ。この3人は拙作『ネヴァー・セッド・ダーリン』の3人組で、律っちゃんもまたゲームシナリオに囚われた自らの運命を変えるべく反抗した前歴があるのでやはり真の肩を持つ気持ちがあった。

ネヴァー・セッド・ダーリン

という設定があった。

 

 

真「ヤローじゃないぞ、このヤロー!」

 これもまた何年か前に投稿した動画で、話の筋はほとんど同じなんだけどPの対応が正反対に違っていて、ついでに観比べてもらえるとおもしろいかと思います。

  

---------------------------------------------

選曲Sw@pping Festival

 ひさしぶりにまともな動画を投稿するきっかけを与えてくださったアイマスMADイベント『選曲Sw@pping Festival』のBBPとanさんにお礼申します。楽しいイベントをありがとうございました。それと私の担当曲であったところのビートマニアの楽曲『MENDES』を寄越してくださった直井Pと、私の選曲であったところのスカイラー・スペンスの『Can't You See』を引き当ててしまった終わり詩Pにも感謝申します。『変身』がいい動画になったのはお二人のおかげさまです。

 それから、イベント締め切りに間に合わなかった私の代わりにMENDESを動画にしてくれた赤ペンPと吊さんにもお礼を申します。どうもありがとうございました。結果的にいえばいい動画が余計に増えて、なかなか良かったことですな。(無反省)

 

  


マイリスト新しくしました

 

 プラチナスターズの真はどんなふうなのかなー(PS4まだもってない)。楽しみだけどいつも通りなんだろうなー。フリフリのドレスでキャピキャピにキメてPの首が危うくなっても本人はご満悦でPのほうが腹をくくるみたいなアツくてカワイイなシナリオが私は見たいの。

 

 

ゴジラと名もなき私

映画

シン・ゴジラ

http://www.shin-godzilla.jp/index.html

 

 

 あんなデカイしっぽが頭の上をかすめたりしたら実際どうだろう。私だったらもう恐ろしくて全身に鳥肌が立って腰が抜けてその場で動けなくなっちゃうと思う。

 あるいはもし私が家にいて、ゴジラの予想進路上に私の家が含まれているとニュースで知ったらどうしただろう。たぶん私は「生き物なんだから進路の予想なんて当たるとは限らんし」とか都合のいい理由を立てて避難命令も聞かず家から出ない気がする。何が起こっても自分の家より安全な場所というのが想像できないからだ。ゴジラのあまりに巨大な足が向かいのアパートを踏み潰すころになってやっと「この場所はダメだ」と確信するももはや半狂乱になって机の下に隠れてただ震える自分の姿が簡単に想像できる。

 

 映画やアニメ作品を観たり、ゲームをプレイするとき、私はいつもその世界の人間の一人として生きている自分の姿を想像している。私がブルー・ノートのジャズプレイヤーの一人だったら…とか、私もライアン救出部隊の一員だったら…とか、私が弱小アイドル事務所の新人プロデューサーだったら…とか。画面の中で繰り広げられる物語には、いつも想像の私の姿が混ざっている。私は画面の中で、時には主人公になり、時には脇役になり、物語上の役割をこなして、物語の一部になった。

 『シン・ゴジラ』には、私の居場所はなかった。政治や行政の仕事というのは私にとってはあまりに、戦争よりも想像のできない世界だ。映画を観ていても、台詞の意味はわかるのにみんなが何をやっているのか全然わからない。わからないのに物事が実際に進んでいく感じだけは伝わってくるし、実際そうしてゴジラを足止めすることができてしまったのは凄いというより不思議…という感じだ。なんでこの人たちネクタイとスーツ着て建物の中をあちこち歩きまわっていろんな人とゴチャゴチャ話し合ってただけでゴジラを倒せたんだっけ…?というようなアホみたいな感慨があった。まるでわたあめの製造機を眺めている時と同じ気持ちだ。なんだか仕組みが全然わからないのにいつのまにかどこからともなくわたあめがどんどん出てきていつのまにか出来上がっている。私はそれを見ているのがとても好きだった。この映画に感じる面白さは、私にはわたあめ製造機を眺める面白さと同じだった。

 でもさすがにわたあめを私自身に置き換えて想像することはできない。もしゴジラが現れたら、私はどこで何をしているだろう。ゴジラに対して何をするだろうと、私は映画を観ながら想像していた。

 きっと何もできない。私は映画の中で何者になることもできなかった。逃げ惑う市民の一人としての自分さえ想像できなかった。街の中を、知らない人たちと一緒になって同じ方向へ逃げる自分の姿というのがどうも思い浮かばない。車を置いて逃げるなんて嫌だなあとか、あんな駅の地下ホームでギュウギュウ詰めになるなんて絶対ごめんだな、なんて思う。あのホームへ避難した人たちは、たぶんゴジラのあのすさまじい熱光線で皆死んでしまっただろう。おびただしい名もなき死者たち。あの人たちの誰一人、名前や役職が明朝体の字幕で表記されることもなく死んでしまった。ドラマのない、あっけない人生の終わり。あんな死に方したくないな~私があそこにいなくてよかった~映画でよかった~と思った。

 映画ではない。ほんの5年前に、ほんの数県離れた東北でこれと同じようなことがあって、2万人もの人びとがほとんど似たような目に遭った。私はその2万人の人びとの名前を一人も知らない。私にとって、名もなき人びとの名もなき死だ。映画のなかの東京が破壊されるのと、テレビの向こうで東北が破壊されるのとを、実際のところ私は同じもののようにしか感じられていないような気がする。私にとっては、私の目に直接入ってくるもの、私の家の窓から見えるもの以外のものは全部、隣町だろうが外国だろうが映画だろうが等しく遠くの世界の出来事だ。今まで生きてきて、ゴジラ津波も戦争の破壊にも直接遭ったことがないからそんなことを言っていられるのかもしれない。

 ゴジラに踏み潰され、建物の下敷きになった、画面に映りさえせずに死んだ無数の人びとと、5年前に津波に流されていった人びとと、今生きている私になんの違いがあるだろうか。私の顔に明朝体の字幕が付くことはきっとない。名もなき私が、ゴジラを前にしたら一体どうしたらいいんだろう。映画は「自分にできることを精一杯やる」人びとの物語で、それを私たち観客へのエールと受け取ることもできたと思うけれど、私はどうもかえって自身の無力感に包まれるような思いがした。おれは…おれはもしかしなくても…自分の身も守れない、いざという時になんの役にも立たない人間じゃないか…?カップラーメンのゴミを片付ける清掃員のおじさんのほうが、私の今している仕事よりもずっと立派だ。ああ、想像するほど、哀れに逃げ惑った挙句だれも知らぬ間に死んでいる自分の姿しか浮かんでこない。なんというドラマなき死!そんなのが本当に私の人生なんだろうか。実際そうなんだろう。そのような死を迎えた人びとが、今日も、昨日も、5年前も、いつの過去にも、数限りなくいるのだ。自分の人生というものは、実際のところ自分自身以外の人にとってはほとんど無に等しく小さな存在なのだということを、ゴジラという巨大な存在を通して、私はあらためて思い出した。

 おお、シン・ゴジラの感想らしい書き終わりになったぞ。

 

 そういえば怪獣からひたすら逃げ惑うだけの『クローバーフィールド』という映画があったのを思い出す。あれこそまさしく「名もなき無力な人びと」の悲哀を描いた映画…だったかな、そうでもなかったかもしれない。まあアメリカ映画だしな。B-2爆撃機がゴジラ空爆したのはこの映画のパロディじゃないかなと思ってる。