シャフ

 アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シャフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」

 

 有名なAmazonのレビューに、登場人物のひとりである「アカ」のせりふが引用されている。あまりに気取りきっていて滑稽だとレビュアは批判している。その通りとも思うし、しかしまた小説の登場人物、それも村上春樹作品の登場人物ならそれほどおかしくはないという気もする。私はハルキストではないけれど、このせりふは好きだ。頭の先からつま先までしっかり気取っていて、ひとつのスタイルとしてキマっているという感じを受ける。村上作品そのものにそもそもそういう印象があり、全編の完全なキマり具合に酩酊するのがここでの作法であり、楽しみであり、人気の秘密のひとつであろうと想像した。レビューを読んで一年以上も経ってから、私は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。彼の作品を読むのは本当のところこれが初めてだった。

 シャフ。

 たぶんシェフのことだとわかる。これも気取った言葉づかいのうちだろうか。ラジオをレディオと言うようなものだろうか。初めて聞いたが、アカという気取ったキャラクタに使わせる気取った単語のひとつとしてはふさわしいように私には思えた。

 

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 シェフ、とアカは言った。「シェフと同じだ。肝心なところは……」私は読みながら、拍子抜けというか、肩透かしというか、とにかくなにかとても物足りなかった。あの全身くまなく気取っている村上作品の登場人物が、ただシェフのことをシェフと言っている。それだけのことが、私にはいささかショックでさえあった。『シャフ』はAmazonレビュアの誤字だったのだ。シャフ、とはこの世に存在しない語句であった。私は長いあいだ存在しない言葉の音感に惹かれ、作品のイメージを重ね、作者の作風をこの一語から感じていたのであった。

 

 アカは笑った。「嘘偽りはない。ありのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。

 

 シャフは未だに私の頭の中から出ていかずにいる。

 

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

料理と食事

 キングゲイナーっていうアニメに「この毛長牛の肉は冷凍5年ものだな?」って言って値切るシーンがあって、キングゲイナーというアニメについて私はほとんどそれしか覚えていないんだけど、そのシーンはとても好きで、スーパーで買い物した肉を冷凍庫にしまったり取り出したりすると必ずそのセリフが頭のなかに蘇る。

 「いいやゲインさん、この鶏肉はまだ冷凍3ヶ月だ。新鮮ものだよ…」

 

 自分で料理するほうだけど、好きでやっているというよりも外食や買い食いが苦手だから仕方なくそうしているような気がする。家族で行くのは別として、普段の生活で外で食事をするという習慣がこのいい歳になってもついに身につかなかった。学生時代に、学校のあと友達とどこかに入って、あるいは買って食べるということも、本当にほんの一度か二度くらいしかなかったと思う。

 同じように、カフェでゆっくり過ごすというのも経験がない。お気に入りの、落ち着いた雰囲気のお店でゆっくりコーヒーを味わうように、大人になればなれるんだろうと思っていたから、落ち着くどころかお店の扉を開けることもままならないままであることにショックを受ける。

 母が料理上手だったのが何もかもいけないのだ。おかげで私はたまにひとりで出かけてもどこで何を食べたらいいのかぜんぜんわからなくていつもなんとなくみじめな気持ちがする。

 

 みんな普段何を食べてるんだろう。コンビニでお弁当を買ったり、ラーメン屋に入ったりしているんだろうか。外食ができる人は、食事の選択肢がいろいろあって、町を歩くのも楽しいだろうなと思う。孤独のグルメはおもしろいけど、私にとって井ノ頭氏は完全にファンタジーなキャラクタだ。どうしてあんな風に、食事そのものを楽しむことができるんだろう、それも孤独に。ひとり豊かで、静かで…

 じゃあ家にいるのが一番だねということになるんだけど、できることなら家に引きこもって一生を送りたいかといえばそうでもなく、本当は休みの日にはもっと外出したいと思っている。車かバイクでどこかに出かけて、そのへんで美味しいものを食べて帰ってくるようなことを気軽にしてみたいと思う。でもどこへ行っても結局落ち着かないから、家にいるのが楽だというのも本当だ。休みの日に家にいるのなら、せめて趣味は料理だというくらいは言えなくてはいけないような気がして、このごろはなんだか家でも落ち着かないでいる。

 

 あるとき荒野にひとり放り出されることになったら、自分はどうなるんだろうということをよく考える。食事を他者に頼ることに対して拒否感があるのは、そういう想像と関係しているのかもしれないと思う。

 「お前、そんな手軽に腹を満たすことに慣れてしまっていて、本当にいいのか。この便利すぎる世の中がお前の死ぬまでつづくって、どうして信じられるんだい?いざという時、サバンナにコンビニはないんだぜ」

 このことを考えると、いつもダマスカスのことを思い出す。戦争になる前のダマスカス市の写真を見たことがあって、それはもしかしたらアレッポ市だったのかもしれないが、いずれにしろパリや東京と変わらないような近代的な美しい大都会で、この写真の人たちなんてこの街が数年でBF2のゲームマップみたいな廃墟になるなんて一片も想像していなかったに違いなく、そう思うとどうして今の私の安全な生活が来年も続くといえるだろうかと思わずにはいられず、だからなんだか、こんなに簡単に料理した食べものが手に入っていいのかなあ、巡り巡って、バチが当たるんじゃないのという気持ちが、どうしてもなくならない。

 

 だから自分で料理をしているのかもしれない。料理をしてこその人生なのかもしれないよ、博士。

『イヤー・アフター』

 

えいすさん

 

 知ったような顔をして高いところからものごとを見下ろしてにやついているカンジのキャラクタっていつもは絶対好きにならないんだけど、ガルパン劇場版に登場した継続高校のミカはなぜかお気に入りのキャラクタの一人になった。ほかに好きなのは五十鈴華さんとアンチョビ。

 外から眺めつつもいざというときにはちゃんと前に出てきて体を張るというところを好感したのかなとも思ったけど、それよりもやっぱりダージリンの社交的なクールさとは違った、もっと根本的な、他人のすることへの無興味さからくるクールさというようなものが彼女らしさという感じで、そこがいいのかもしれない。戦車道には大切なことのすべてが…って妙に熱っぽいことを劇中で言うけど、あれは実際のところ言った本人はたいしてそう思ってなさそうというか、隣にいたアキをからかって言っただけなんじゃないかという印象が、映画を何度か観るうちに強くなってくる。

 だから、劇中から一年後のミカが石川の何もないところでひとりで小屋に住んでるというのはなんだか私の中のミカの印象にとても合うように思えて、マンガでは他にも色んな人の一年後の姿が出てくるんだけど、このミカのパートが私は一番好きだった。『或る旅人の日記』という好きな映像作品を思い出します。

 

 彼女にとっての戦車の季節が過ぎて、人里から離れて一人で暮らすミカというのが、冬の近づくムーミン谷から去ったスナフキンそのままという感じでおもしろかった。ミカを訪れたまほはまた彼女を戦車に誘うわけだけど、春の訪れとともに谷へ戻ってくるスナフキンと同じくミカもまた戦車道の世界に戻っていくのだろうか。

 あるいはまた、スナフキンがものごとに執着しない人物であることを思えば、ミカは一度降りた戦車にはもうすっかり興味を無くしていそうな気がするし、そのほうがなんだか自然に思える。それでもまほの誘いになんとなく乗り気なのは戦車でなくまほに会うのがうれしいからであって、それもまた、何にも執着しないスナフキンムーミンを親友として想っていることと重なって見える。「…また来てね」の”…“がとてもかわいらしい。

 

 ミカみたいに生きられたらいいのになと思う。私もいつか地の果てみたいなところで小さな小屋に住んでシチューを煮詰めて暮らしたいよ。作者のえいすさんも同じこと考えてこの小屋の絵とか描いたんだろうなというのがヒシヒシ伝わってくるようでたいへん(勝手に)共感しました。

 とてもよい漫画だった。

 

 

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)