生命式

 『魔法のからだ』『街を食べる』『孵化』がよかった。

 

 ほとんど使っていないインスタグラムのアカウントを持っている。インスタグラムはアカウント登録時に自分の携帯電話番号を教えなくてはいけなくて、自分はそれがいやで仕方なかったけれど、世間の一般感覚では携帯番号というのは、少なくとも、外国の私企業に明かすのをためらわない程度には、特に秘密にすべき個人情報とは思われないのかもしれなかった。自分は世間の一般感覚を身に付けたいという思いで、仕方なく番号を登録し、登録したとたん、自分のアドレス帳を経由して、母親や、10年以上会っていない知り合いなどに、自分がインスタグラムを始めたことが通知されたらしいと知って、それでもうすっかりやる気をなくしてしまった。それは、インスタグラムでは現実社会での人間関係をそのまま持ち込むことを求められる、自分自身であることを強要されるということへの嫌悪感からだった。

 自分のTwitterアカウントは、いまではもうずいぶん薄まってしまったけれど、もともとはアイマスMADのコミュニティに加わる人間という人格、あるいは立場のものとして作ったものだった。自分のTwitterアカウントとインスタグラムのアカウントを連携させようとは思わない。どちらも自分のアカウントだけれど、それらは基本的に別の世界に属していた。

 『孵化』のハルカはそういったペルソナの使い分けを極端に描いたキャラクタだけど、ペルソナを使い分けて生きるということ自体は人間として自然なことだ。作中ではむしろ、自身の5つのペルソナを打ち明けたハルカに対するマサシの単純な拒否反応のほうが読んでいて腹立たしかった。ハルカには本当に本当の自分というものがないのか、なぜマサシはハルカにもっと質問して対話をしないんだ。

 それは本作があくまでエンタメ小説であり哲学書ではないからだろう。そういうことを考えたければ読者が自分で考えればいいし、読み終えてそのまま忘れてしまってもいい。社会常識の変化、拡張された身体としての都市という感覚、禁忌の境目、個人と集団のあいだを行き来する自分など、人間の深いところへ潜っていけそうなテーマがちりばめられているけれど、あくまで作品が連れて行くのはその入り口までというバランスがどの作品にも通底していて、刺激的でありつつ読みやすくおもしろかった。

 

 常識も倫理観も時代によって変化するのであれば、現在のそれを信じることは近視眼的で頭の悪いことなのだろうか。『生命式』で、生命式という新しい社会風習になじめなかった池谷は、同僚の山本の式を通じてそれを受け入れる気持ちに変化していく。池谷の気持ちが満たされるのは、受精行為そのものではなく、今現在の社会の常識感覚に自分が馴染むことができたということ、自分が普通の人になれたということへの安心感によるものだ。私たちはいつも、社会という大きな集団の一員であることの安心感と、孤立した個人として社会を見つめる冷静さとのあいだで揺れ動いている。孤立した気持ちのまま生きるのは疲れるし、集団のなかに心身を浸し続けていると自分がどんどんバカになっていくような気がする。

 池谷はある意味で冷静さを手放すことと引き換えに大きな安心を得て、『素敵な素材』のナオキは自身の冷静さ、守るべき価値観と思っていたものがあっさりと取り崩されて途方に暮れる。ふたりの違いは、変化を受け入れるそのタイミング、その速度、そのきっかけの違いに過ぎない。

 私たちが社会から孤立することは不可能だ。引きこもりでさえ、社会と常に繋がっている。社会の変化、その時代の常識を、個人がその心身のなかから完全に締め出すことはできない。それを抵抗なく受け入れられる人、自身のなかでよく咀嚼したうえでゆっくりと受け入れる人、受け入れられなくとも、受け止めて、別の国に住んだり、社会運動などの形で別の新しい変化を起こそうとする人などの違いがあるだけだ。その違いを、私たちは人格とか性格と呼ぶのだろう。集団、社会、他者というものに常に翻弄される私たちは、だから『魔法のからだ』で志穂が唱える呪文「私たちは私たちのからだを裏切らない…」という言葉に、瑠璃が心強さを覚えることにとても共感する。

 自分を疑い、同時に自分を信じ続けることが、自律した個人であり続けるための道なのだろう。自律した個人であることにどれほど意味があるかは別として。

君たちはどう生きるか

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 Twitterで、アイドルマスターシャイニーカラーズのことを『シャニマスくん』と呼ぶのと同じ心理で宮崎駿パヤオと呼んで何事かを言う人や、公開前の唯一のビジュアル情報であったアオサギのイメージイラストを超つまらないパロディにしておもしろがっていた人びとのことはものの価値や礼儀をわからない憐れな野人として片端からミュートする程度には宮崎駿を信仰しているので、当日はインターネットの情報を遮断してまったく内容について知らないままレイトショーで観ました。そのこと自体、たいへんおもしろい体験で、映画ひとつをこれほど楽しみにしたのも一生のうちこれが最初で最後ではないかと思う。

 

 宮崎駿イメージ全集という、カラーイラストで埋め尽くされた分厚い本があって、それを映像として見せられたというような作品だった。あらゆる場面、すべてのぺージが、彼のこれまでの作品のどこかに通じる、あるものはあからさまな、あるものは隠された通路のような、作品として生まれる前のイメージの世界を旅するようだった。

 キャラクターやストーリーはどのようにも解釈し得るし、どのように解釈されてもかまわないつもりで描かれているのは明らかだ。自伝であり、原作の再解釈であり、純粋な少年の成長譚としても見ることができる。明確で整合性のある(ラピュタのような)物語を好む人には不評だとしても仕方がない。けれど、宮崎作品において物語よりもイメージの魅力に重きを置く宗派の自分にとって、本作はまったく福音のような作品、インコの言うところの天国のような作品だった。

 見るだけで気持ちが安らぐ、あるいは浮き立つような風景、動作、建物、食べ物、乗り物、道具、空と雲、海、森、生き物たち。美しく塗られた緑色の木製扉。白い石造りの東屋。黄金色の太陽の光。そして久石譲の音楽。ふつうのアニメ映画の10本分くらいのイメージがあまり整理されないままに溢流のように押し寄せてくる。けれど眞人の行く塔の中の世界というのは作品以前のイメージの世界、生まれる前の命の世界、時間を超越した生者と死者の想像世界であり、まとまりのなさにむしろリアリティを感じた。眠るときに見る夢の中の世界だ。ふつう他人の見た夢の話ほどつまらないものはないが、宮崎駿の見る夢は宮崎作品そのものなので、その夢を、いわば商業的に整えないままに見せてくれたことは信じられないような奇跡的な体験だった。ファンタジーとして非常に抑制的だった”引退作”の風立ちぬを受け取ってから10年も経った今になってこんなものを観られたということの、いま自分が感じているこのよろこびの深さと大きさを、宮崎駿信者でない人に伝えるのは難しい。もう1,2度は映画館で観たいと思う。

 

 ジブリ映画のエンドクレジットに必ずあったはずの「おわり」の文字が、今作には見当たらない。誰がどんな夢を示したところで、人には理解されないし、世界は変わらないし、人生は終わらない。自分の時間を生きろと老人は言う。けれど、だれかの夢が、人の心になにかを残すことはあるかもしれない。それが、知らず知らずにその人の生きることを支えることもあるかもしれない。残したもの、伝わったもの、小さな白い石のかけらが、人を終わりない存在にする。作家としてのそういうささやかな望みを示すエンディングだったと受け止めた。できるかぎりに受け止めて、どうもこうも生きていくしかない。

 

 

 

 インコ大王に歓呼三声!のシーン。漫画版のナウシカで一番かっこいいシーンのひとつを、庵野秀明なんかにやらせるかという強い意志を感じてニコニコしてしまった。元気すぎる。もう一本いけるよ宮﨑駿!

幸福な暮らし

 所ジョージのテレビ番組をたまたま初めて観た。昔からやっている番組で、いまならTwitterでやるような世間話をだらだらするだけという内容だったけれど、彼のまったく肩肘を張らないたたずまいと話し方に妙な癒し効果がありおもしろかった。彼は幸福そうだ。

 その番組をまた観ようと思うのだけれど、決まった日時にテレビを見るという習慣を失って久しく、毎週忘れてしまう。

 

 子供のころから昼寝をほとんどしたことがない。のび太が暇を見つけては昼寝をするのを読みながら、それは空き地で野球をしたり、おやつが冷蔵庫ではなく戸棚にしまってあって、ネズミにかじられたりするのとおなじ、自分の暮らしとは違う生活文化の話だというふうに子供心に受け止めていた。

 それがこのごろ、休みの日に昼寝をする。昼寝をしたいというより、なんだか身体が疲れて、まだ昼間だけど寝る以外にないという感じで2,3時間も寝てしまう。まだ30代なのに……と、自分の体力の少なさが悲しくなってしまう。のび太の昼寝は自身の幸福のための積極的行動として描かれるけれど、自分は疲れに負けてのものだから寝ても覚めても気持ちが晴れないのだろうか。

 

 どのみち働けなくなった途端に路上で寝るしかなくなる水準の暮らしなら、フルタイムの勤務なんてしていても仕方がないなという気持ちがだんだんと心のなかを占めてきている。家の近くにコストコができるそうだから、会社を辞めてそこでアルバイトをしようかなとなかば本気で考えたりしている。午前中だけ働き、午後は家でギターを練習したり、外国語の勉強をしたり、庭の草むしりをしたり、猫をブラッシングしたりする。将来性ということを考えなければ、いい暮らしだと思うけどな。

 どんな暮らしをしていても、私たちはいつでも明日死ぬかもしれないということを忘れなければ、生きていけるだろうと思う。プライドとともに。幸福のうちに。枯れた考え方だと思わなくもない。