天気の子

 旅行へはいつも車で行く。

 母は列車の旅が好きで、車なんて運転が疲れるじゃないと私に言う。列車に乗っている間、本を読んだり、好きにしていられるのだから楽でいいわと話し、確かにそのとおりであるはずだけど、どうしてか私はいつも車で移動するほうを好んだ。

 運転中、自分は何も考えていない。いろいろのものごとについて思いを巡らせているような気がするけれど、それらはただ流れるだけ、河の淵の水のように、ぐるぐると巡ってどこかへ流れ去り、あとには何も残らない。夜のドライブは考えがよくまとまると、竹中直人の声の男は言っていたけれど、私にはそういう実感はない。車を運転することと、パチンコ台の前に座っていることとは、実はほとんど同じことなんじゃないかという気がする。だから好きなのだろうかと思う。怠惰な脳のための時間。それが私にとってのドライブなのだろうか。

 

 

天気の子

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 廃ビルの屋上にある鳥居をくぐれば陽菜にまた会えると、帆高がどうしてそう思ったのか、わからないようでわかる。そこしか彼女と関わりのありそうな場所は他にないから、そこへ行ってみる以外に出来ることはなにもなく、だからそれにすべてを賭けたのだろう。なんの理屈も確証もないのに、ほかに賭けられるものがなにもないので、賭けるか、賭けないかの純粋な二択になり、陽菜が失われてひとり残される世界を思えば、どんなに頼りない可能性であってもそれにすべてを賭ける以外に、帆高が選べる道は実質的にはなかった。蜘蛛の糸よりおぼつかない、霞のようなものにすべてを賭けて、ファンタジーの力がそれに応えるというところに、この作品のフィクションとしての気持ちよさがあり、それは前作『君の名は。』で口噛み酒を飲んだシーンも同じで、この、きわめておぼろげなものから物語が大きく展開するという作りが、いわゆるノベルゲーム的と言われているところなのかなと思った。

 

 都市がきわめて美しく描写されるいっぽうで、そこに住む人びとはみんな冷たく、無機質に描かれる。警察官がやたらと頻繁に登場する。彼らは都市の秩序の象徴として、秩序(法律)に従わない子どもたちを捕らえ、排除しようとする。帆高に優しくしてくれる須賀と夏美は確かに都市の住人だけど、須賀の仕事はアウトサイダー的で、夏美はなかなか職を得られず、ふたりとも都市の中に住んではいるけれど都市社会に所属はしていない人物として描かれる。全編で都市を描きながら、おもな登場人物は都市から外れた人間ばかりだ。

 敗戦から苦労して新しい秩序を作り上げた時代はとうに過ぎ去って、今は秩序がひび割れ、それが壊れるのか、維持するのか、作り変えるのか、どうなるのか誰にもよくわからない時代で、そういう社会、都市を、若い世代の人びとは一時期のように拡張された自身の一部、たとえば冴羽獠のように、街そのものが自分のホームという感覚ではおそらく捉えていない。都市は人びとと、人びとの作り出した秩序の容れ物で、壊れ、朽ちていけば捨てることもできる、自分自身とは根本的には繋がりのない無機と有機の集合体であるというような見かたが、新海監督の都市観、あるいは世代としての感覚であるように思える。『君の名は。』ではもっと単純に、都会は出会いと希望のある素晴らしい場所だというふうに描いているように私は感じて、それに抵抗があったんだけど、それは思い違いだったのか、あるいはこの数年での監督の考えの変化もあるのかもしれない。

 

 作中において、都市の秩序が破壊されることが躊躇されない。帆高が、監督が、あるいは現在の私たちが、そこに価値を感じていないからだろうか。重視されるのは、帆高の心的な秩序、筋、彼女を救い、守りたいという気持ちで、フィクションは帆高の心に応えて彼と大自然の秩序とを直接結びつけ、陽菜とふたりで道を選ばせる。そこに都市の関わりは一切ない。ふたりと自然とのあいだで取り引きは直接交わされ、都市はただその結果としての雨に打たれて、沈んでいく。それはまるで自分たちを冷遇し、小突き回し、自由を奪い、受け入れなかった都市に対する、彼らの怒りの籠もった復讐の雨のようにも見える。

 

 都市を車で走るとき、自分が都市の一部に溶け込んでいくような気がする。大きな流れのなかに自分の車もいて、ほかの車のなかから自分を見分けられる人は誰もいない。私と一緒にこの通りを走っているおびただしい数の車のドライバーたちのうち、この街に住んでいる人はどれくらいいるんだろう。この街と自分とはなんの関わりもないのに、まるでこの街と自分が一体であるかのように感じられてくる。

 自分はおおむね無所属の人間で、住んでいる街にも、地域にも、隣人にもぜんぜん関わりを持っていず、社会的にも、勤めている小さな会社の人たち以外に、私を知る人はほとんど誰もいない。そういう、社会からぎりぎり外れず端のほうにかろうじて立っているような自分が、車の運転中だけはまるでニューロンが何本もつながった活発な脳細胞のように社会に溶け込んでいるように錯覚する。帆高も、陽菜もまた、都市において無所属の人間だった。無所属の人間から見た都市の印象というものが、よく描写されていると感じた。

 

 帆高もまた都市を走り抜ける。車ではなく、足で走るが、それは私が運転で感じる擬似的な一体感とは真逆の、都市と自身との決別を示すような走りとして描かれる。自分に彼のような走りができるだろうかと自問する。あるいは、彼のためにリスクを犯して道を空けた須賀のような人間に。帆高は線路の上を走る。それは都市の、鉄道利用の規則に違反している。彼は都市の秩序を足蹴にし、都市の人びとに指をさされ、笑われ、制止されても、自分と大切な人のために構わず走り去っていく。

 帆高はもうどこへ戻ることも考えない。陽菜を救うために、彼の人生のすべてを賭けて全力で走っていく。憧れた都市も、社会の秩序も、大勢の他者も、すべて置き去りにして、誰も知らない場所を目指して、彼の見た予知夢へと、その向こう側へと。

 陽光をめざして、彼はゆく。

 

君の名は。』より私は好きだな。