はいから大正浪漫ガシャ

 

 私たちにとって大正時代というのは、まだ戦争も遠くにあり、民主主義が育まれ、和洋折衷のもっとも美しいバランスのとれた華やかな文化の薫りに包まれていた時代、というような、古き良き時代というもののひとつのイメージの箱であって、実際のかの時代がどのようであったかについては、すくなくとも「大正浪漫」という語で言い表す際には特に関心がない。私も、1912年から1926年まで続いた大正時代がまるごと韓国併合の時代の中であったことを、今回のことを見るまで意識したことは一度もなかった。

 

 過剰反応だといって切り捨てるのは簡単だ。でもそれは私たち日本人が彼らに対して言っていいことだろうか。彼らにしてみれば、大正時代は自国が他国によって支配された苦難と屈辱の時代のまっただなかにあり、それがロマンチックだろうがロマンティシズムだろうが、「浪漫」という、甘くドリーミィな語で装飾され、まるで平和で朗らかな空気にイラストレートされていれば思うところがあって当然だ。そうでなくても近年の私たちは、過去の歴史をなかったことにしようとする考えに染まりつつあるのではないかと疑われているのに、そういう彼らの「お気持ち」を嘲り、無視してやればいいというような態度をとりながら、同時に歌織さんのかわいらしい笑顔を堪能するというような器用なことは、私にはできない。

 

 ガシャを撤回しろとも、大正浪漫という言葉を封印しろとも私は思わない。彼らにしても、本当に望んでいるのはそういうことではないような気がする。ただ、彼らの意見を、彼らの話を聞くべきだと思う。彼らがなにを思って、なにを意見しているのか、その表明を、嘲笑ではなく、静かに聞く態度を常に持って接することが、彼らに対する、この国に偶然生まれて生きている私たちとしての、なんというのか、誠実さを示すことなのではないかと思う。マリリン・マンソンがドキュメンタリ映画のなかでそういうようなことを言っていて、印象的なそのインタビューのシーンを私はいまもよく思い出す。

 まして私たちはプロデューサーなのだから、人の話を聞くことについては、いつでも得意でありたい。海外の同僚ともいい友人同士でありたいと思う。すぐに答えの出る問題ではないとわかっていても、アイマスが、とりわけシアターデイズがみんな一緒に前に進んでいくことをテーマにしていることを意識するとき、今回のことが国内のアイマスのコミュニティの間においてはただのノイズとして流し去られ、すぐに忘れられていってしまうとしても、私はひとりのプレイヤーとして、ずっと心に残しておきたいと思う。