クリスマス

 クリスマスになにか特別ハッピーな思い出があるわけではない。小さいころは普通に(普通という表現もこのごろは無神経な言いかたと見なされるだろうか)部屋にプラスティックのツリーを飾り、ケーキを切ってもらい、寝ているあいだに枕元に阪急デパートの包みのプレゼントを置いてもらっていた。包み紙のにおいや手触りを今でも思い出すことができる。サンタクロースが両親であることはなんとなくわかっていたと思うが、プレゼントをくれるのは両親であり、それは同時に本物のサンタクロースであるということを矛盾のないものとして自然に理解していた。

 通っていた幼稚園のクリスマス会で、園長先生が扮するサンタクロースが現れたときのことを覚えている。私たちはみんなそれが白い付け髭をした園長先生だと気がついていた。しかしその時もやはり、だれも彼を”にせもの”だとは感じなかった。赤い服を着て、私たち一人ひとりにお菓子を配ってくれるこのひとは、毎日私たちとあいさつしている園長先生であると同時に、北の国からトナカイの曳くそりに乗って私たちの幼稚園まで来てくれた本物のサンタクロースであることを疑問なく受け入れていた。

 小さい頃の、そういう神聖な認識の感覚というようなものを時々思い出す。

 

 生活にもっと余裕があり、勤め先から賞与が出たら(出ない)クリスマスの飾りをたくさん集めたいとずっと思っている。あの小さないろいろの飾りものが、ハンズやセリアやショッピングモールの雑貨店で並べられているのを見つけるたびに、ふらふらと近寄ってはじっと眺めている。金色や銀色のモール、金色や銀色のよくわからない玉、ミニチュアのツリー、ステッキ、サンタクロース、星、十字架、トナカイ、ソリ。木彫りのトナカイを手に取って、これはもしかしたら自分でも彫れるだろうかと考える。ものづくりにたずさわる人間を自称したいのなら、そうすべきかもしれない。いまこれを買って家に持ち帰れたら素敵だろうが、自分というひとりの生活者を客観的にに見つめるとき、それはふさわしい行動とは思えなかった。このトナカイは、子どもか、子どもを持つ親に手にとってもらうのがふさわしいように思われた。あるいはクリスマス会を準備する幼稚園の先生に。

 

 毎日、イルミネーションを灯した家を何軒も通り過ぎる。ホームセンターでThis Christmasが流れている。郵便受けにクリスマスケーキのチラシが入っている。平日は仕事場にいて、休日は家にいるから、私はこの街のことをなにも知らないが、この街のどこかにもライトアップされて明るく飾られた通りがきっとあるだろう。車のタイヤをスタッドレスに換えた。もう何年も自分でやっているから慣れている。せっかく換えたので雪が降ってくればいいのにと思う。できればクリスマスに。

 もうなにも、自分には関係ないのかもしれない。それでもクリスマスは好きだなと今も思う。


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 右に向かって、つまり南から雲が流れ降りてくる。

 あれはおそらく雨雲で、午後遅くから雨という予報は当たるだろう。それでも今はまだ陽の光が残り、対岸側の湖面を白く照らしている。

 水の匂いをかすかに感じる。木と草、空気の匂いがもっと濃厚にただよっているはずだが、私の嗅覚はこの10年来というもの何らかのアレルギー症状によりほとんど機能しないままだ。道端の花の匂い、工房の木の匂い、露店から流れてくる食べものの匂いをふたたび感じられるようになったらどれほど楽しいことだろうか。

 

 岸辺で男の子が石を拾いあげて投げようとする。すると母親がすぐさま叱る。石が人にぶつかると危ない、わかっているのか?石に触ってはダメ。男の子は石の誘惑に逆らえず別の石をまた拾う。母親は強い言葉を投げつける。どうしてなんだろう。男の子はもう石への興味をなくしたふうを装って駆けていった。そばにいる父親は薄く笑ってなにも言わない。俺が父親ならその石を拾って、湖に向かって30メートルも投げて見せてやるのに。

 

 遊覧船のアナウンスがここまで聞こえてくる。風がすこしづつ冷たくなってくる。二葉の松葉が枯れ落ちて上着に当たる音がする。

 秋を見に来るには少し遅すぎたかもしれない。

 

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アーサー

ジョーカー

http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/

 

 アーサーは俺だと感じて泣ける人がうらやましい。私はアーサーではない。病気はなく、虐待も受けておらず、しかし彼のように子どもに優しく接して楽しませることが私は苦手だし、他者に関心を持てない。人を笑わせる仕事がしたいと望むアーサーのほうがずっと人間らしく、善人だ。だからこそ彼という人間は非人間的なゴッサムシティという社会に殺されてしまったように思えるし、だからこそ、私は今のところ社会のなかの一人の人として生きていられるのだろうかと思わされる。

 

 3人を殺してしまったあと、アーサーは我に返って公衆トイレに逃げ込み、自分の人生が決定的に血で汚れてしまったことへのショックを絶望的に受け止めようとするかのように、ゆっくりと踊りだす。絶望の底にいるはずでありながら、身体の中からある種の、これまでに経験したことのない新しいエネルギーがみなぎるように湧いてくるのを彼は感じる。その高揚、踊る肉体から発せられるその熱が、画面越しに私たちの額にまで伝わってくる。

 それは私たちが内心にいつも欲しているエネルギーであり、同時に決して一生関わりたくないと恐れる暗黒のエネルギーだった。私は禁忌の熱にぼうっとして劇場を出た。

 

2019/10/7